第2523日目 〈『ザ・ライジング』第4章 43/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 十二月の凍てついた空気が肌に突き刺さってきた。公園の入り口で立ち止まり、目の前に広がる闇の世界を凝視する。闇は慈悲に満ちていた。自分達の世界の住人になると決意した少女を歓迎する慈しむ思いが、暗闇の隅々にまであふれていた。闇は恐怖の対象ではない。闇は愛惜を知っている。恐れるべきは闇を隠れ蓑にして悪事を企む、彼岸此岸の別なく住まう者に対してだろう。
 ゆっくり、ゆっくり公園の奥へ歩を進めた。夜更けの公園は予想外に明るかった。耳に聞こえてくるのは、土と傘と枝葉に打ちつける雨の音だけ。それは如何なる音楽よりも美しく、魂へ訴えかけてくる響きだった。自然に優る音楽はない。雨と闇の世界を歩きながら、これまで自分がやってきた音楽はいったいなんだったのか、そう反省させられるぐらい見事なハーモニーに、知らず知らず溜め息がもれた。
 松林を退けてぽっかりと開けた、土が剥き出しのグラウンド。松林を縦横無尽に、縫うように走る小道。植えこみの境界は松の樹皮を模した人工の木杭とロープで示され、ところどころの段差には、同じ木杭が倒されて埋めこまれている。公園が毎日の遊び場であった者の常として、希美も幼い頃、この小道で迷子になって夕暮れまで泣き腫らしていた者だった。いまそれを思い出すとなんとも恥ずかしく、なんとも照れくさく、なんとも懐かしかった。左手には、子供が四、五人乗れるぐらいの小舟の形をした鉄製の遊具と二台のシーソーが、闇夜の中で薄ぼんやりとした輪郭を浮かびあがらせていた。よく彩織や真里ちゃんと遊んだっけ……真里ちゃんは仕切り屋さんだったなあ。
 しばらく歩くと左斜め前方の小高い堤に休憩所の屋根が、重なり合った松の枝の間から見え隠れしている。自宅に防音室(聞こえはいいが、納戸として扱われる方が圧倒的に多かった)を作ってもらうまでは、テューバの練習をたいてい、公園内に数ヶ所ある休憩所で行っていた。日が陰って雨が降り始めたのも気づかずにいたため、途方に暮れてしまったことも幾度かある。他ならぬこの休憩所で、ふーちゃんと美緒ちゃんの三人で夏休みの宿題をしたこともあったっけ。別のとき、やっぱり同じ場所で美緒ちゃんとお喋りしながらおにぎりを食べていると、それまでおとなしくしていた美緒ちゃんのシベリアン・ハスキーがいきなり飛びかかってきたこともあった。あのシベリアン・ハスキー(確か雄で、セオデンなる勇猛果敢な名前だった)が死んじゃったのは、いつのことだったろう。
 なおも足は自らの意志を持つように交互に動き、希美を――彼女が無意識に選んだその場所へ連れてゆこうとしていた。落雷で真っ二つに裂け、隣の植えこみの松の幹にもたれてアーチを築くような形に倒れた松の老樹をくぐり、うねうねと曲がりくねって迷路みたく感じられる小道をたどっているうち、ふいに公園の外へ出た。
 目の前には片側一車線の道路があった。希美はそのまま道路を横切り、なまこ壁に沿って歩いた。曲がり角のポストへ封筒を投函して一、二歩歩きかけてから、思わず足を停めて、電柱の陰に身を潜めた。そして、そっと道路の反対側にある派出所を窺い見た。
 田部井さんがいたらどうしよう。もし見つかったら声をかけられて……家に連れてゆかれるのがオチだろう。田部井さんというのは、深町徹が刑事だった頃の上司である事件がきっかけで降格されいまは千本浜公園の派出所に詰めている人だ。おっとりした性格の五十男で、こんなにこにこ顔のぽっちゃりした体型の人が、本当に刑事だったのか、と思わず疑ってしまったのを覚えている。そっと派出所の方を覗いてみた。電気が灯り、人影も見えた。おそらくあれは田部井だろう。
 見つかるわけにはいかない。希美は人影が消えた瞬間にためらいなく道路を渡り、派出所の裏手に、道路を隔ててなお原や片浜の方へ広がる公園へ駆けこんだ。ちょっとしたスリルを味わったせいか、肩がぜいぜい喘いでいる。その場で息を整えてから、雨だれの音色を奏でる噴水と、若山牧水の銅像と歌碑を横目に、松林の中を移動した。一歩一歩そちらへ近づくにつれ、風が強くなってくる。傘をまっすぐ持つことも徐々に難しくなってきた。
 防波堤の階段を駆けあがると、荒々しい唸り声をあげる強風が思い切り吹きつけ、傘があおられ骨がぽきんと折れた。猪口になった傘が、風に嬲られ希美の手を離れると、空へ放りあげられ、すぐに彼女の視界から消えてしまった。刹那、希美の体が松林の方へ引き戻されかけたが、腰をおろせるぐらいの幅がある突端部に肩掌をついて、どうにかその場に踏みとどまった。
 目の前に海が横たわっていた。黒く、時化た海が。太古から人間の生活を助け、ありとあらゆる命を呑みこんできた海が。希美の成長をその両親と共に見守ってきた海が。□

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