第2524日目 〈『ザ・ライジング』第4章 44/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 目の前に、海が横たわっている。怒号に似た唸りを立てながら、海は飽くことなく波を浜辺へ押し寄せていた。白い波頭は夜目にもそれとはっきり映り、うねりゆく様も細かくわかった。
 それをうつろな眼差しで眺める希美は砂浜にたたずんで、全身の揺れるのを風に任せ、海の向こう側から荒々しく吹き寄せる風に漆黒の髪をなびかせていた。これまで何度も夜の海は見てきたが、常に畏怖や恐怖が心の底にしっかりと根を張っていた。だがいまは、目の前に茫洋と広がる光景に魅せられ、誘惑されかけている。その先で待つのは永劫の闇。愛する死者達が待つ永劫の闇によって統べられた世界。希美にとっていまや海は黄泉の国へ通じる路であった。
 いま行くよ、パパ、ママ。もうすぐだから、正樹さん。もうすぐ逢えるよ。それまで待っていてね。
 希美は一歩を踏み出した。歩くたびに足が砂にめりこみ、不安定な足許では風に誘われ砂利と小石がポルカを踊っている。あと十歩ほどで波打ち際だ。右足の爪先が流木に当たり、つんのめってバランスを崩し、膝から転んだ。両掌が砂に沈み、左の薬指がガラスの破片に触れて一直線に切れた。鮮血が滲みはじめる。顔の両側から垂れた髪で視界は半分以上ふさがれた。
 閉じた目蓋の裏に昔の光景が鮮やかに甦ってきた。希美にとって海辺は懐かしい思い出でいっぱいだ。物心ついた時分からの、またとない遊び場でもあった。〈旅の仲間〉や真里はもちろん、小学校の同級生や近所の子らと連れだって(時には誰彼の保護者付きで)ここで遊んだのは数知れない。幼稚園のときはともかく、小学生の頃は学外行事で来たこともたびたびあった。原の海岸に小型タンカーが嵐で流されて打ちあげられたときは、真里に引き連れられて彩織と三人で自転車に乗って、それを見物に出掛けたりもした。高校へ入学して知り合った藤葉や美緒に何気なくそれを話すと、なんという偶然か、二人も日を同じうしてタンカーの見物に来ていたという。「もしかするとすれ違っていたりしたかもね」と一刻、四人して盛りあがったものだ。
 ――あの日、正樹さんのことで彩織にけしかけられたのも、そういえばここだったっけ。希美の両の頬を涙が伝い落ちてゆく。それは顎まで流れて拳になった手の甲へ落ちるまでの間に、雨に紛れて涙なのかどうかもわからなくなってしまった。彩織がいなかったら片想いで終わっていたかもしれないな。そうしたら、正樹さんは死なずに済んだかも……。まあ、私がレイプされていたかどうかは別として。彩織、いままでありがとう。私のいちばんの友だち。楽しい思い出をたくさん作ったね。忘れないよ……さよなら……大好きな彩織。
 (うちらを残してどこへ行くつもり、のの?)
 幻聴だろうか。だが、ここに彩織がいるはずはない、いまのは空耳だ。それにしてはあまりにはっきりしすぎている。でも、確かに宮木彩織の声だった。風の勢いに途切れることなく、その声は希美の耳許へ届いた。希美はうなだれていた顔をあげ、口を半開きにしてあたりを見回した。幾列にも幾重にも築かれたテトラポッドのすぐ手前、希美のいるところから五メートルと離れていないところに、彩織が立っていた。こちらを見る眼はもの哀しげだ。心の奥底へ押し隠した秘密まで見透かされるような思いに囚われた。いつもの元気たっぷりな彩織からは滅多に窺えない表情に、希美は気圧される感じがした。そんな目で見ないでよ、せつなくなっちゃうじゃない。せっかく決心したっていうのに……。
 (決心って死ぬことなの、ののちゃん?)
 木之下藤葉がそういいながら、彩織の背後から姿を見せた。その目にははっきりわかるほどの怒りが宿っている。これも普段の藤葉からは想像できない表情だった。彼女の鋭い眼差しに希美は、彩織とはまた別の意味で気圧された。だが、その睨みは裏切られたことへの怒りではない。そこには――その一端には、愛情が確かに宿っている。ごめんね、ふーちゃん。でも、わかって。信頼していなかったわけじゃない。こればっかりはみんなの慰めがあっても駄目なの。私一人が考えて結論を出さなきゃいけないの……。
 (それじゃあ、希美ちゃんにとって私達はいったいなんだったの?)
 テトラポッドの陰から現れ、藤葉の隣に立った森沢美緒がそう訊ねた。両手は腹の前でしっかりと握りあわされている。涙がしとどに流れていた。思わず希美はうつむいた。美緒の情念のこもった視線を、正面から受け止められる自信がなかったからだ。みんな、大切な友だちだよ。たぶん、これ以上の友だちなんて、このまま生きていたって得られはしない。世の中の誰一人としてみんなの代わりにはなれない。けれど、正樹さんの代わりだって誰も務められないんだよ……。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。