第2541日目 〈『ザ・ライジング』第5章 1/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 準備は終わった。そう上野は独りごちた。生きている心地がしなかったぜ。なんたって俺は犯罪者だからな。いつ学園や警察から電話がかかってくるだろう。それを思うと顔色は、鏡を覗かずともわかるぐらいに青ざめ、足許から冷たいものが脳天まで貫いてゆき、いても立ってもいられなくなる。
 今日は帰宅してから四回、部屋の電話が鳴った。携帯電話の電源は学園を出る前からずっと切ってある。電話が鳴るたび、それが地獄の底から赤塚が自分を呼ぶ声に聞こえて仕方なかった。いや、もしかしたら死んでいなかったのかもしれない。俺がそう早とちりしただけで、実際は生きている。あのあと、むくりと起きあがり、ぺちゃっとした笑みを顔に貼りつけて、体をずるずると引きずって、俺の後を追いかけてくる途中から電話をしてきたのかもしれない。部屋に閉じこもって電話が鳴るたび、一度新聞の勧誘で男がベルを鳴らしたとき、その向こうにいつも、自分が最前殺してきた人間が、色を失い、焦点を結ばぬ眼でこちらを見、腕をだらんとこちらに伸ばしている姿が見えた。勧誘は耐えきれずに怒鳴って追い返したが、電話には出ることができない。受話器を取った途端に風の音がし、赤塚の忌まわしいだみ声が自分の名前を呼ぶような気がする。あり得ないこととわかってはいても、それを想像すると電話に出る勇気なぞ湧いてくるものではなかった。
 だが、と上野は自分を説得するように声に出し、頷いた。俺はもう二度とあいつが、深町に危害を加えられないようにしただけなんだ。それだけでも誉められるべきじゃないか。彼は部室の床に横たわっていた希美を思い浮かべた。最低のことをしてしまったな。よりによってなんで深町を。この数ヶ月で彼女はあまりに辛い経験をしたんだぞ。お前だって知らないわけじゃあるまい。それをようやく克服した矢先に、ああ、上野宏一よ、お前はとんでもない苦しみを彼女に与えたな。きっと、彼女を大切にするすべての連中に八つ裂きにされるぞ。……いや、俺は地獄に堕ちて、その業火に永遠に苦しむのだろうな。
 深町、ごめんよ。謝ってどうなるものでないのは、もちろんよくわかってるさ。でも、一言だけ謝りたかった。そうした上で、……。そう、お前の家に何度も電話したのはそのせいさ。けど、逆に怒られてしまった。あれはいったい誰だったんだ、お前の家にいたあの人は。なんだか、かなえを思い出したよ。
 自分がいま手に握っているものを見つめながら溜め息をついた。最後にお前に謝ることができて、俺もようやく安心したよ。これから俺は、あることをしようと思う。いうなれば、たった一つの冴えたやり方、ってやつだ。
 電話がまた鳴った。がなり立てるように何度も、何度も。そちらへ視線を向けることもなく、うつむいたまま、上野はそれを無視した。するうち諦めたらしく、電話は鳴りやんだ。仰向けに寝転がって天井を眺めていると、ロフトの縁に開いた縦に細長い空間へ目が向き、自然と首吊り自殺という考えが浮かんだ。それ以上長く見あげていると、ロフトから下卑た表情の赤塚が顔を出すような気がする。彼はそそくさと立ちあがり、近くのコンビニでおあつらえ向きの長さ太さのロープを買いこんで帰宅した。ボーイスカウト時代の記憶をたぐり寄せて、なんとか用を足すに十分なものが出来あがるまで、電話が二度鳴ったけれど、やはりこれも無視した。□

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