第2543日目 〈『ザ・ライジング』第5章 3/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 受話器のずっとあちら側で空虚な呼び出し音が響いている。上野にはそれがまるで死刑執行を宣告する前に裁判官が打ち鳴らす木槌の音のように感じられた。そうしたあとに俺は、死の天使どもに介添えられて断頭台へと足を運ぶんだ。BGM? そんなのベルリオーズに決まっているじゃないか。《幻想交響曲》、それ以外にいったいなにが?
 向こうで受話器を取った重苦しい音が聞こえ、回線は相手とつながった。「もしもし?」という大河内の眠たげな声が耳に届いた。いちばん聞き馴れた相手の声なのに、彼にはどういうわけか、それが深町希美の声のようにも、池本玲子の声のようにも聞こえた。
 「――もしもし? 宏一さんでしょ、なんで黙ったままなの?」
 彼女の少々すさんだ声で黙考から返り、「そうだよ。ごめんね、こんな時間に」と、彼はいった。ベッドの縁に腰掛けて、セーターの裾をいじくりながら、視線はあのロープに釘付けになっている。「少し話がしたいんだけど、いいかな?」
 「え、ええ。もちろん」
 そういう大河内の声に、とまどいの表情が浮かんでいる。いつもと違う様子の恋人の声にどう対処していいのかわからないようだ。
 「よかった。……かなえ、俺はとんでもないことをしちまったよ。――おっと、なにもいわないで。時間がないんでね。俺さ、今日の、いや、昨日だな、もう。昨日の放課後、部室で深町を……レイプしちゃったんだ」
 淡々とした調子の自分の声を聞きながら、彼は背筋に冷たいものが走ってゆくのがわかった。と共に、受話器の向こうで大河内が、ひゅっ、と音を立てて息を呑んだのもわかった。上野は十秒ばかりの間、彼女がなんといってくるか待っていたが、なんの反応もないので、喋りを続けることにした。
 「かなえで満足できなかったわけじゃないよ。深町の方から誘惑してきたわけでもない――そんな子じゃないのは、君だってよく知ってるよね。第一、俺が自分の意思でそんなことをするわけないっていうことも、お前ならわかってくれるよね」と上野はいった。「だって俺はかなえしか愛していないし、かなえで十分満足してるしね」
 しばらく沈黙が二人の間に降りた。上野はこれ以上なにをいっていいのかわからなかったから、黙っていた。受話器の向こうで大河内が、なにかをいおうとしてそのたびにいい澱んだ。しばらく居坐っていた沈黙は、上野の細い溜め息で亀裂が生じ、大河内の質問で去っていった。
 「こ、宏一さん。それって、あの、本当……なの?」
 小さく頷きながら、彼は「そうだよ」と呟いた。口許にはかすかにそれとわかるいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。「本当だ。嘘だったらいいんだけど……でも、あいつらに脅されていてね。そうするしかなかったんだ……」
 彼は目蓋を閉じた。恐怖に震えた眼差しで自分を見あげる希美の姿が、脳裏をよぎった。これまで我慢していた熱い涙が、上野の両眼からこぼれていった。――本当だよ。俺は許されない罪を犯してしまったんだ。いくら奴らに脅されていたからって……なんていうことを……。□

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