第2544日目 〈『ザ・ライジング』第5章 4/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 「あいつら、って誰?」
 上野は手の甲で涙を拭いながらも、大河内の疑問に答えようとした。それはいい質問だな。この問題の核心をついている。でも、直接名前を出すと正気を失ってしまうかもしれないから、遠回しにいうことにするよ。「理事長の血縁者さ。一人は職員。教員じゃあないよ。もう一人は生徒だ」
 「いけ――」
 「もう行かなくちゃ。ロープが俺を待っているんでね。それじゃあ、……さよなら」
 そういって上野は子機の切ボタンを押した。ツーッ、ツーッ、という音が聞こえてくるより早く、彼はそれをベッドに放り投げた、
 そろそろ清算の儀式に取りかかるか。視線はじっとロープに据えられている。そこまで歩いてゆき、手をかけて、思い切り引っ張ってみた。これぐらいで解けてしまうようなら、首吊りの役には立たない。だが、ロープは上野の期待に添った。ぴんと張ったロープから反発する力が上野の腕に伝わってきた。同時に痺れも、また。
 まあ、苦心して作った甲斐はあった、というものだな。でも、まさか、自分のための首吊り用ロープを作るなんて、夢に見たこともなかったな。いまあの少年の頃に戻って、ボーイスカウトでロープの結び方を一生懸命覚えている自分にこのことを教えてやったら、果たしてガキの俺はどんな顔をして未来の自分を、大人になった自分を見るのだろう。ましてや、自殺する理由を知ったなら。まだ生まれてもいない人間を犯した罪の意識に駆られてお前は死ぬんだぞ、いいか、夢のような二十一世紀になって数年後のことだ。そんなことを聞かされたら、さて、あの頃の俺は未来を変えようと努力してくれるかな。運悪くあの学校に就職してしまっても、脅しに屈しない強い意志を持ってくれるだろうか……。
 さらばだ、思い出よ。楽しかりき日々よ、嘆きの日々よ、喜ばしき日々よ、苦渋の日々よ、さらばだ。親しい人々よ、また会おう。愛しき人よ、我が生涯の華よ、どうか健やかであれ。
 上野はロフトのはしごのいちばん下の段に足をかけた。両脇の手摺りを握りしめながら、今日一日のことを思い出そうと試みた。が、それは結局出来なかった。その代わり彼の脳裏に思い浮かぶのは、二度と戻ってこない日々の記憶の断片だった。
 短な溜め息をもらすと彼はロフトを凝視し、一段一段はしごをのぼっていった。合板とステンレスを組み合わせたはしごが、踏み板へ足をかけるたびに悲鳴をあげた。いつか段がはずれて捻挫しそうね、と笑いながら大河内がいっていたのを、彼はふと思い出した。どうでもいいが、いまだけははずれないでくれよ。もしそうなったら、苦心してロープを作った意味なんてなくなるんだからな。
 ロフトへあがると、彼は身を乗り出して下を眺めた。フローリングの床が眼下に広がっている。思わず平衡感覚を失いかけて、足許がよろけた。このまま落ちたら、首の骨を折って死んでしまうかもしれない。それは即ち、苦心して作ったこのロープが無駄になるということだ。いまここから落ちるわけにはいかないんだぞ、気をつけろよ、と上野は独りごちた。
 ロフトの縁に掌をついてしゃがみこむと、彼はロープをたぐり寄せた。このロープの端に作った輪っか――そう、これこれ――に首をかけて、ここから飛び降りる。もっとも命を絶つ可能性の高い自殺の方法なんて、これしか思いつかない。でも、これがいちばんだ。 上野は両手で捧げるように持っている輪っかに首を通した。そうして彼は床に膝をついて中腰のまま、転がり落ちるようにしてロフトから身を投げた。
 ――最前の電話で恋人の異常を察して駆けつけた大河内かなえによって、ぶらりと垂れさがる上野宏一の死体が発見されたのは、それから一時間ばかり経った頃のことだった。□

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