第2548日目 〈『ザ・ライジング』第5章 8/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――耳の奥で管楽器群が半音階の和声を厳粛に、それでいて慄然と奏でるのが聞こえた。それに耳を傾けているといつの間にか、底無しの淵に行き当たって足許を覗きこんだときに襲われる、あの足の裏がぞわぞわし全身が鳥肌だって総毛立つ、感情が千々に乱れる思いがした。だがそれもしばらくして一定のレベルを超えると、その響きが孕む官能美に恍惚とした気分を味わえた。希美はただ一度だけ、そんな気分にさせられてしまうとても美しくて限りなく危険な音楽に出会ったことがある。リヒャルト・ワーグナーの書いた三幕からなるドラマ《トリスタンとイゾルデ》、その第一幕前奏曲がそれだ。二〇世紀があと数年で終わりを告げる年の秋、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、ロッシーニやプッチーニのオペラをこよなく愛していた父になかば無理矢理、母もろとも横浜まで連れて行かれ、折から来日中のクラウディオ・アバド=ベルリン・フィルの《トリスタン》に接し、件の前奏曲がほの暗い会場に響き渡ったとき、希美は得もいわれぬ甘美にして淫靡な香りを漂わせる音楽に全身を硬くし、その響きに忘れられないぐらいの衝撃を受けた。以来父の持つLPやCDの中に《トリスタン》を見つけても、手を伸ばすことがためらわれてならなかった。なぜならばあの夜こそが希美にとって性の目覚めであり、その契機となったのがあの前奏曲だったからだ。いま耳の奥で管楽器群が奏でる半音階の和声は、否応なしに希美に《トリスタン》を連想させた。いまでも、休日の昼さがりに好きなオペラや古楽を聴きながら、お気に入りのロッキング・チェアに腰掛けて目を瞑った父の姿を思い浮かべるのは容易だ。寝ちゃったのかな、と疑問に満ちた視線で父を見、ついで、たいてい一緒になって音楽に耳を傾けていた母を見たものだ。そのたびに母は、ううん寝ていないわよ、とか、寝ちゃったみたいね、と仕草で娘に示した。
 ふと希美は思い考えこんだ、父についてほとんどなにも知らないままだったんじゃないか、と。すれ違いだったわけでも、思春期特有の毛嫌いでもなかったのに、父のことはほとんどなにも知らずにいるのを、彼女はいまになって気がついた。ずっと一緒にいた人なのに……。希美は空を見あげながら、ジーンズのポケットに折りたたんで入れた父の写真にそっと触れた。希美の頬を再び熱い涙がこぼれ、音もなく海に落ちた。ママと二人して突然いなくなっちゃうなんて非道いよ。病気で死んだのなら、まだ諦めもつく。まったく関係のないテロに巻きこまれて死ぬなんて、こんな不条理なことがいったい許されていいの? 私もあのとき、バリに行けばよかった。そうすればこの世に残って悲しまなくても済んだのに。お願い、もう一度姿を見せてよ、パパ。そしてママといる世界へ私を連れてって。それが無理なのならせめて二人が、そしてあの人がいないこの世界で生きてゆく勇気を私に頂戴……。□

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