第2549日目 〈『ザ・ライジング』第5章 9/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美はずっとテューバを吹いていたいの? 夏の牧歌的な匂いのかよう風を浴びながら、連れだって歩いていた父が突然口を開いてそう訊いてきた。もうそこに自分の姿は見えない。今年の夏の夕暮れに父と散歩したときの光景が、希美の目の前で広がっていた。そのときの風の香りや波の音、防波堤を自分達と同じように闊歩する人の声が自分を取り巻いている。
 その父の質問にこっくりと頷く希美。別にプロになろうとは思わないけれど、できれば音大に進学して、吹奏楽団かオーケストラを持っている企業で働きたい。希美はそんなことをいう自分の声を聞いた。本当は警察か自衛隊の音楽隊に入りたいんだけどね、倍率が厳しいから希望しても私には無理だと思うんだ。父を見あげて、てへ、と笑いながらそういった。
 すると父は、駄目だよ、夢があるなら実現させなきゃ、と厳しくいい放った。夢があるなら実現させるために少しでも努力しなくっちゃね、とも。それはおそらく、自分と結婚したばかりに前途ある未来を放棄した、元ユーフォニアム奏者の妻への悔恨がいわせた台詞であろう。ある時の寝しなに深町徹は妻に、嘱望されていた未来を捨てたことに後悔していないか、と訊ねてしまったことがある。即答であった──否。結婚後は家庭を最優先にしたかったのでユーフォニアム奏者として歩んでいたかもしれない人生を棒に振ったことに未練も後悔もなに一つない、だからあなたはそんなことを気に病む必要はない、と。そうして娘が強要したわけでないのに自分から吹奏楽の道に進み、母親と同じ高校、同じ部活に籍を置くに至ったことに旧姓松本恵美は彼女なりに満足しているようだった。
 希美は夕陽でオレンジ色に染まった海へ目をやった。耳許でさざ波の音がしたかと思うと、それは徐々に大きくなり、波が希美の顔をさっと撫でていった。小さくむせびながらこれまでの光景がすべて幻影で、いまは真夜中の駿河湾の沖を独りぽっちで漂っていることを思い出し、疲れが全身に襲いかかり、四肢から力を奪っていってしまうような感じがした。
 生きて帰れるのかしら? 陸はどれだけ遠いのだろう?
 そんなことを考えていると、はっきりと父の声が聞こえてきた。現実味のある父の声。まるで近くに船がいて、その上から呼びかけられたようだった。
 もちろん、生きて帰れるさ。まだ生きたい、ってあんなに強く望んだじゃないか。それにね、陸はそんなに遠くない。泳いで帰れないわけじゃないから、その点は安心してくれていいよ。
 目を少し右手に動かすと、手を伸ばしてなんとか届くくらいのところに父がいた。生きていたときと同じ、穏和な笑顔でこちらを見ている。
 パパ……。希美の目がたちまち涙に曇っていった。「逢いたかったよ、パパ……」□

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