第2550日目 〈『ザ・ライジング』第5章 10/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 少しずつであったが、父がゆっくりと希美の方へやって来た。波に自分の体が流されているせいなのか、それとも、本当に父がこちらへやって来ているのか。ぼんやりとした頭で考えてみても判然としなかったが、そうするうちにも父娘の間は徐々に縮まっていた。父が両腕を広げた。抱きしめようとする仕草だった。それがたまらなく胸に響き、希美は涙が目にじわりと浮かぶのを感じた。もう二度とそのあたたかさに出会えるはずのないと信じていた父の抱擁。父と娘の間に淡く存在した、例えようもない独特のエロス。だが、それは決して性を連想させるものではない。如何に足掻いても、父と母の間に流れて結ぶ絆に太刀打ちできるものではなかった。希美は下唇を上の前歯で噛んだ。父は、またそんな顔する、といって顔をしかめた。そこにはどこか、そんな希美を見て楽しんでいる風が窺える。
 もう会えるのはこれで最後かもしれない、っていうのに、なんだってお前は自殺なんて馬鹿げたことをしでかそうとしているんだい? 父はそう娘に質問した。
 最後なの――? もうこれっきり会えなくなっちゃう、ってこと?
 おそるおそる希美は力の入らない腕を伸ばした。海に入ってだいぶ時間が経っていたせいと、海底近くまで沈んだりしたこともあって、彼女の全身からはどんどん体力が奪われていった。いま懸命に伸ばそうとしていた腕も、指は親指以外の四本はくっついて離れず、拳はほんの少し、申し訳程度にゆるめた程度しか開かなかった。辛うじて海面に浮いていられるのがふしぎなくらいだった。するうち、希美の脳裏に一つの疑問が生まれた。このまま岸へ帰り着くことなんて出来るのかしら、という疑問が。帰れなければ、死が待っている。それぐらいはわかったし、そんなのはごめんだ、とも彼女は考えることができた。ああ、そうか、でもそうすればパパのいる世界へ行けるんだよね。そう希美は呟いた。
 希美、と父が呼びかけた。お前にはまだ生きてやらなくちゃならないことがあるんだよ。誰かと結婚して、僕らの墓前に孫を見せに連れてくることだってそうさ。それを聞いた希美は必死になって首を横に振ろうとした。それを父が制した。でもね、じきにそうなるんだよ。僕もこっちへ来て初めて知った、人の一生は生まれたときから定められている、ってね。かわいそうだけど、そういうことなんだよ。
 そういいながら自分のすぐ脇に立った深町徹の手が、力を失って海面へ落ちる直前の希美の手に触れた。その思いがけない感触とぬくもりに、彼女は思わず、どきっ、とした。だって、まるで……。
 一緒に暮らしていた頃みたいだろう? 父が笑顔でいった。そう、死者も生きているんだよ。このことを忘れないで。
 頷きながら希美は聞いた。「そっちへ行くときじゃないの?」
 笑顔を崩さずに父が頷いたのを見て、希美は無性に哀しくなった。生きてゆく、っていうのが、こんなに辛いものだとは知らなかったよ、パパ。
 「まだこっちに来ちゃいけない。あと何十年も人生の残り時間があるんだからね、お前には。さっきはあんなに強く生きたいと望んだじゃないか。あれは嘘じゃないんだろう?」
 「でも、浜辺まで戻れそうもないんだよね。それだけの体力はないみたい。なのに、私はまだ生きなくちゃならないの?」と希美はいった。声がやけに弱々しく耳に届いた。
 再び父が頷き、そうして、娘を抱きあげた。それは彼自身、妻にしたことがないぐらい、壊れ物を大切に取り扱うような抱擁だった。
 父に抱えあげられ、上半身が海上に出た。それを知って希美は、安堵の溜め息をもらした。腰のあたりで波が飛沫をあげている。肩まで垂れていまは幾つかの房にまとまった髪を、冷気が嬲ってゆく。だが、父の体のぬくもりに守られていたからか、希美はどうにか冷たさをこらえられ、そのまま胸に顔を埋めていた。そうしていて、ふと、彼女は思い当たった。白井正樹の腕の中で過ごした安寧の思いと懐かしさが、他ならぬ父親に抱きしめられているときにずっと感じてきた気持ちに、とてもよく似ていることを。そうか、私は正樹さんに父親を求めていたのかもしれない。純粋に好きだったけど、心のどこかで、パパに似た雰囲気を持った正樹さんが気になっていたのか。そう思うと途端に胸が熱くなり、懐かしさと愛おしさがこみあげてきた。と共に、いつでも自分を信じ、守ってくれた父と今度こそ本当のお別れをしなくてならないという事実に、耐え難い哀しさを彼女は覚えていた。□

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