第2551日目 〈『ザ・ライジング』第5章 11/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 だしぬけに心のずっと深いところから、幼い時分の記憶が甦ってきた。父の乗ったバスを追いかけている記憶だった。あれって何歳のときだったんだろう。希美は目を閉じながら考えた。小学校には入学していた。二年生にもなっていた。それ以後であるのは確かだった。彩織が転入してきて同じクラスになったのが、二年生になった年の五月。バスを追いかけながら、沼津署近くのマンションに入居する秋まで彩織一家が暮らしていた賃貸マンションのそばを通ったのも、よく覚えている。だとするとあれは、春の終わりから夏の終わりまでの約三ヶ月のことだったか。あのとき父はおそらく仕事の関係で東京(桜田門にある警視庁かもしれなかったが、いまに至るまで希美はそのときの父の出掛けた先を知らなかった)へ出張しようとしていたのだろう。父と一晩だけ離れて暮らすのは、このときが初めてというわけではない。もうその頃は既に、追いつめた犯人から銃に撃たれて病院に担ぎこまれ、一ヶ月ばかり病院で過ごす父を見舞ったことだってある。なのにこのときばかりは、もう二度と会えないような気がして仕方なかった。もしかするとそれは、母に手伝ってもらいながら父が出張の準備をしている場面を目撃してしまったせいかもしれない。翌朝、父が出掛けるのを見届けると、希美は母の目を盗んで家を抜け出し、バスを追いかけ始めた。お金なんて持っている年齢ではなかったから、駆け足で行くよりなかった。それまで乗っていた自転車は小さくなってしまっており、新しいのを誕生日に買ってあげるね、と約束させられていたから、それを持ち出すのは逆効果だと子供特有の知恵で希美はわかっていた。それにしても、よく子供の足で追いかけられたなあ、と父に抱きしめられながら希美は子供の頃の自分に感心した。バスが信号や停留所で停まるたびに、窓の向こうの父の姿が近づいた。私に気がついてよ、とその都度彼女は叫ぼうとしたが、口の中はからからに渇き、言葉が出てこなかった。結局、駅で切符を買おうとしているところで追いついたんだよね……。その場面を思い出して、希美は苦笑した。びっくりしていたな、パパ。どう言い訳したか覚えてないけど、パパは出張を取りやめて、西武の地下でバニラとチョコレートのミックスソフトクリームを買ってくれたっけ。家に二人して帰った途端、ママのすごく大きな雷が落ちたけど。あの後で父がなんといったか忘れてしまったが、彼は以来、稀にある出張の際は必ず駅まで妻と娘を伴うようになった(希美の学校があるときは終わるのを待って)。そうすれば娘も独断で行動を起こすこともないだろう、という両親の思惑がそこに働いていたのを希美が知ったのは、彼女が中学に進学する頃だった。閑話休題。
 希美は目を開けた。父の姿はもうない。それどころか、海面を仰向けに漂っている。父が現れ、抱かれたのは幻覚だったのだろうか。それとも、回想に耽っている間に密かに父は腕をほどいて、娘の体を海という名のベッドへ寝かせていったのか……。いま視界に映るのは嵐が過ぎ去っていった空と、あちらこちらで瞬く無数の星々、それに、空のところどころに見える刷毛で流したように描かれた雲だけであった。波の音も静かだ。刹那、目蓋を閉じてまた開くと、彼女はじっと夜空を見あげた。□