第2555日目 〈『ザ・ライジング』第5章 15/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 藤葉は自転車を停めた。雨で濡れている路面にタイヤが音もなく滑った。脇から水しぶきがあがった。海からは強い風が吹きつけてくる。雨もまだ降りやまぬ天候の下、小諏訪の自宅からずっと自転車を走らせてきた。防波堤の遊歩道に乗り入れた途端、バランスが崩れて倒れ、左の膝小僧をしたたかに打ちつけた。いまもその痛みと疼きを感じる。とはいえ、希美が見つかるまで傷口を見てみる気にはなれない。親友が死のうとしているときに自分の怪我なぞ構っていられるものか。
 手袋をした手で籠に押しこんだデイ・バッグから双眼鏡を摑んだ。黒革のケースから出すのももどかしく目に当てて、海上の砂浜を舐めるように見渡した。どこにも希美の姿はなかった。ののちゃんは絶対この海にいる。寝しなに電話をかけてきた彩織に、藤葉はそう叫んだ。なぜなら藤葉もうつらうつらしながら見たからだ。海の中をおだやかな表情で沈んでゆく希美の姿を。そして、遊歩道から眺める駿河湾の光景を。双眼鏡を覗いて一瞬、ここじゃなかったのかも、と不安になった。が、すぐに、そんなことはない、と思い直した。確信の根拠ははっきりとしないが、藤葉には、もし親友が自ら命を絶つとしたら、この海でしかあり得ない、とわかっていた。
 ののちゃん……。再びペダルを漕ぎ始めた藤葉は、昨年高校一年の初夏、希美と二人で右手の眼下に広がる砂浜で過ごしたときのことを思い出した。思ったより家が近いということがわかったせいもあって、以来、二人はここでとりとめのないお喋りに興ずることがあった。将来のことや恋愛のこと、互いの部活の内輪話等々。その年、冬の日の夕暮れ刻、希美は高校を卒業したら音大に進んで、警察か自衛隊の音楽隊に入りたい、といった。警察? 自衛隊? ダっさー。最初に聞いたときはそう思ったが、数ヶ月後、希美に連れられて浜松市のアクトシティ浜松で行われた海上自衛隊音楽隊の演奏会に接して、当初の印象は吹き飛んだ。それからは藤葉も誘われて都合がつけば(そんな日はほとんどなかったのだが)吹奏楽の演奏会には出掛けていったし、希望通り希美が音楽隊に入れればいいな、と考えている。
 そんな将来の夢を話す希美を横で見ていて、藤葉は中学一年の時に病気で死んだ妹を思い出し、その面影をいつの間にか親友に重ねていた。友だちという以上の奇妙な感覚を初めて会ったときから覚えていたが、いまはもういない妹の姿をだぶらせ、まるで妹へ接するような態度と情愛で希美にこれまで接していたのだ、と知ったのはそのときだった。ののちゃん、お願い、死なないで。妹の分まで生きて……。
 昨日の――何気なく腕時計を見た。もう一時三〇分を回っていた――出来事がまざまざと甦ってきた。吹奏楽部の部室で倒れている希美を発見し、陵辱者に怒りを覚えながらも彼女を介抱したときのこと。ゆっくりと歩調を合わせて隣を歩くものの、なんと声をかけていいのか迷った帰り道のこと。気詰まりな空気に包まれながら駅で別れたときのこと。希美を乗せたバスが遠ざかってゆく宵刻の光景。もしかしたら、もうこのまま会えないんじゃないか、という不安が心をよぎったこと。鳴らない電話に不安になって、希美の携帯電話に何度もかけたのに、留守電にさえつながらなかったこと。死なせてたまるものか、と藤葉は心の中で呟いた。
 彩織から電話があったとき、吹奏楽部の部室での一件を話そうか迷った。結局はいわずにいた。それだけの時間の余裕はなかったし、希美と約束したからだ。誰にも話さない、と。もし誰かに話すとすれば、それはすべて本人が判断することだ。余計なことはしでかさない方がいいというものだ。もしののちゃんが命を落としたら、上野先生、私は絶対に貴方を許さない。
 私に電話する前に美緒にかけた、と彩織はいっていた。藤葉はペダルを漕ぐ足により力をこめながら、そう口の中で呟いた。視線はときどき前方へ、もっぱら右手の砂浜と海に向けられている。彩織にとってののちゃんは家族同然の存在だ。付き合いも長い。私と美緒のそれよりも長い。でも、ののちゃんには彩織以上に付き合いの長い人がいたはずだ。藤葉も何度か顔を合わせ、〈旅の仲間〉の誰彼と一緒にどこかへ出かけたことがあった。隣に住んでいる背が小さくて元気な(ときどきやたらとハイテンションなので疲れを感じるときもあったが)あの人は、名前をなんといったっけ……。お隣のまりちゃん。彩織も希美もそう呼んで実の姉のように慕っていた女性。まり……そうだ、若菜真里さんだ。死んだ妹の名前がその女性の姓だったのが印象に残っている。
 若菜真里さん……ののちゃんが危ないんです。沼津に帰ってきているのなら海まで来てください……。藤葉はそう強く願って、遊歩道を自転車で疾駆した。□

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