第2556日目 〈『ザ・ライジング』第5章 16/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 帰宅して彩織から電話で知らされるまで、真里は白井正樹が殺されたことを知らなかった。連絡を受けてすぐに希美の家に行ってみた。湯あがりでパジャマを着、歯も磨いていたが、それでも行ってみた。誰もいなかった。希美は既に海の中にいた時分である。真里は「自分も海に行ってみる」と彩織に連絡し、普段着に着替えて家を後にした。
 いま、真里は千本浜公園を右手に望む、緑町の住宅街の夜道にいた。この道は、希美が公園を抜けて派出所を避けて渡った、あの片側一車線の道路へ続く。幸い雨はあがっている。真里は小走りにその道を海目指した。
 今日はいろんなことがあったな、と額の汗を拭いながら思った。それも全部のの絡みだ。明け方の夢で真里は希美と元町で買い物をしていた。マンションを出てしばらく歩いたところでは希美にそっくりな少女とすれ違った。電車に乗ってぼんやりと外を眺めていても希美の顔ばかりが思い浮かんだ。自宅のそばまで来たら電柱にうずくまる希美本人と再会した。直感でレイプされたのがわかった。もっとも、一日に二度も、四人の男からとは、さすがに気がつかなかったけれど。いずれにせよ、部活の顧問というのが関わっているのは間違いない。畜生、と真里は口の中で呟いた。なんでののまで……あんな辛い出来事を背負うのは自分一人で十分なのに……なんで私の大切な妹までが。
 街灯の光によって路面へ作り出された自分の影法師を見て、彼女はなんの脈絡もなく、幼かった時代の一コマを思い出した。掌に乗るぐらい小さな焦げ茶色したクマのぬいぐるみを、いつも希美は持ち歩いていた。その日、希美は真里の家の庭で遊んでいた。もちろん、クマのぬいぐるみも一緒だ。なんの拍子だったか真里は覚えていないが、ぬいぐるみの頭の布が破れてしまった。中から粗く刻んだ黄土色のウレタンがあふれ出た。それを見た希美は一瞬の間きょとんとしていたが、次には口許が震え、近所に鳴り響くぐらいに大きな声で泣き始めてしまった。真里はすぐにぬいぐるみもろとも希美を抱きしめたが、手に負えず、なにごとかとすっ飛んできた深町恵美の腕の中で、ようやく希美が泣きやむ様を眺めていた。ののにとってあのクマのぬいぐるみは友だちという以上のなにかだったんだ。そう真里は考えた。あのときの希美の、淋しさとも哀しみとも恐怖ともつかぬ表情を、真里はいまでも忘れることができない。希美があのぬいぐるみを捨てることにひどく反対し、駄々をこねているらしいのを、真里は母から聞いた。……それから数日が経って、真里は希美の家に遊びに行った。すると、驚くなかれ、クマはいた。居間のテーブルの上にちょこんと坐って、こちらを見ている。やあ、真里ちゃん、と黒くて垂れた目は語りかけてくるようだった。希美が喜悦の表情を浮かべて真里の横に並んだ。ママがウレタンを詰め直して縫い合わせてくれたんだ、といいながら。手術は成功したのだ。以来、外に持ち歩くことはなくなったけれど、希美がそのぬいぐるみに注ぐ愛情はずっと強く、濃くなったようだ。あのぬいぐるみはまだいるのだろうか、と真里は自問した。最前の久し振りにあがった希美の家のあちらこちらを思い返してみる。玄関、居間、台所、洗面所、浴室、そして、希美の部屋。カンガルーのぬいぐるみがベッドの上で寝転がっていたのは覚えている。が、あのクマのぬいぐるみだけは思い出せない。捨てたのだろうか? 否、と即座に返事があった。そんなことは考えられない。ののがあのクマを捨てたりするはずがない。ののがあのクマを残して死ぬはずがない。――意思弱になる心を奮い立たせるため、真里は自分にそういい聞かせた。
 真里はいつしか小走りに駆け出していた。スニーカーが水溜まりを踏んで水飛沫が散った。誰もいない夜道に真里の足音と荒い息づかいが響いた。青白くさえざえと冷たい輝きを放つ月が雲間から姿を現し、下界を眺めている。あの月の下は海、海には希美がいる。
 あの片側一車線の道路に出ると、左右を横目で確かめて渡った。まっすぐ伸びる路地を進み、防波堤へ駆けあがる。海を一瞥して彼女は妹の名前を叫んだ。返事はなかった。何度叫んでみても、それは同じだった。
 彩織……お前はいま、どこにいるんだよ……お前からの電話で私はここに来た。でも、ののがどこにいるのかわからない。頼むよ、私よりも早く海に来ているのなら、一分でも一秒でも早くののを見つけだして……。
 真里はまるでなにかに突き動かされでもしたように自然と、足を原や富士の方向へ向けて、防波堤を走り始めた。□

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