第2558日目 〈『ザ・ライジング』第5章 18/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 青白い月が見えた。寒々とした印象を与える色だった。月影はときどき歪み、ゆがんだ。薄紗を敷かれたように白濁して映る。幾何学的な形状へ分断されて破裂し、宙を舞い、そうして散ってゆき。万華鏡のきらめきを彼女は連想した。月はもはや無数の欠片となって空中を漂い、ふわふわと落ちてき、海の雪となって、沈みゆく希美の体のまわりを輪舞した。肌に触れたそれは小さくぷつん、という音をたてて弾けた。それを耳にしながら自然と口許がほころんだ。青白く輝いていた月の欠片はやがて希美を包みこみ、彼女の心から恐怖という感情を根こそぎ払いのけて安堵させた。眼球を動かしてきょろきょろと左右を見渡してみた。深い闇を湛えた海がまわりにあるだけだった。有限の命を持つ者の姿はどこにもない。黒い衣の男の姿も見えない。安心したせいか、急に眠気が襲ってきた。眠っちゃ駄目だ。自分にそういい聞かせてみても、本能の要求には逆らえそうもなかった。ゆっくり目蓋が閉じられていった。
 いつしか希美は緑町の自宅の前にいた。これが夢の中だというのはわかっている。そしてこれが、過去でも現在でもなく、他ならぬ未来の光景だということも。子供の手を引いた真里が家の前にいる。明らかに希美が出てくるのを待っている風だ。何度となく視線が希美の家の玄関に注がれている。子供がなにごとかを母に喋り、真里は腰を屈めて耳を傾けた。男の子なのか女の子なのか、ここからはわからないけれど、四歳ぐらいかしら、と希美は思った。真里ちゃんも何歳なのか知らないけれど、相変わらず背がちっちゃいなあ。あれじゃいつかそのうち、子供に身長追い抜かれちゃうね。そう希美は独りごちて微笑した。傍らをセダン型の車が一台通り抜け、二メートルぐらい離れたところで停まった。いまよりも髪が伸びて落ち着いた雰囲気を纏った彩織が、開いたドアの陰から現れた。彩織は手を振りながら真里達に近づき、二言三言を交わすと、希美宅の門扉のノブに手をかけた。そのときだった、玄関の扉が、がちゃっ、と開かれたのは。
 希美はそこから出てきた人の姿を見て、思わず息を呑み、その場に立ち尽くした。玄関から姿を現したのは二十代後半ぐらいの青年と、その手をしっかりと握った幼稚園にあがるかあがらないかぐらいの年齢の女の子だった。一瞬、希美はその青年が白井正樹だと思った。もしかするとこれは、あり得たはずの未来の光景ではないのか、とそう考えてしまった。だが、青年は愛して殺された男性ではなかった。面立ちはどちらかといえば父に似ている。丸顔で穏和な、ぬーぼーとした感じの青年だった。だが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。青年は真里親子と彩織に挨拶すると、女の子の手を引き、アプローチの階段をおりて門扉を開けて道路へ出てきた。女の子はにこにこと笑顔をこぼしながら彩織に近寄ってまとわりついた。ちょっとおぼつかない足取りだった。彩織も女の子の頭を撫でてしゃがみこみ、額をくっつけて笑いあっている。青年は優しげな表情で、女の子を「朱美」と呼んだ。「彩織おばさんが困ってるよ」と続けていった。それを聞いた彩織が「ひどいなあ、ウチ、まだおばさんやないよお。(そういいながら、真里に彩織は目をやった)真里ちゃんはもうオバハンやけど」といっているのが、希美の耳にも届いた。真里から脳天に拳固を喰らって、彩織は大げさに顔をしかめて見せ、周囲の笑いを誘った。ずうっと変わらないものもあるんだなあ、と希美は思った。それにしても、子供は女の子で、名前は「朱美」っていうんだ、三代続けて「美」の字をつけているんだね。くすり、と笑いながら、あれ、彩織はまだ独身なのかな、と疑問に感じたとき――□

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