第2559日目 〈『ザ・ライジング』第5章 19/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 隣に誰かの気配を感じた。未知の人ではなく、自分のよく知っている人だった。美緒ちゃんかな、それとも、ふーちゃん? いや、醸し出される雰囲気は母にとてもよく似ている。
 希美はゆっくりとそちらを見やった。視線がほんの少し上から感じられた。服装を見るまでもなく、すぐに女性とわかっていた。そして、徐々に希美にもわかってきていた。――隣に立ってこちらを見ているのが、ほんの少し先の時代の自分だということが。
 視線が合った。二十代の希美の後ろから強烈な光が放たれており、その姿はシルエットになっている。まぶしかった。目をすがめて未来の自分の顔を覗きこもうとしたが、できなかった。全身が鳥肌立ち、畏怖を覚えた。
 やがて二十代の希美が口を開いた。「なにがあろうとも生きなさい。死ぬなんて絶対許さないからね」と有無をいわさぬ厳しい口調だった。希美は息をするのも忘れるぐらいに呆然と、相手の視線に曝されていた。「あなたに希望を託して死んでいった人々の想いを裏切らないで」
 途端、夢の中の光景は色を失って消滅し、海の中の世界があたりに戻ってきた。
 溜め息をついて海面を見あげた。目蓋の裏に熱いものが感じられたが、涙はこぼれてくる様子がない。もしかするともう流れているのかもしれなかったが、波に濡れていてはそれすら定かではない
 あなたに希望を託して死んでいった人々の想いを裏切らないで。
 そうだね……生きよう。そのためにも帰ろう。希美は再び形を取り始めた月を見あげて呟いた。さあ、立ちあがろう。まだ泳げるだけの体力は残っているだろう。そう思って体の向きを変え、手足を動かしてみた。が、筋肉が強張っているせいでなかなか思うようにはいかない。ふーちゃんにあのとき、水泳教えてもらっとけばよかったなあ、と後悔しているときであった――
 目の前に黒い衣の男が現れた。いい加減しつこいなあ、と思わないでもなかったが、出てきてしまったものは仕方ない。はっきりいってやりたかった。なんで私なんかにこだわるのよ!? あんた、ひょっとしてストーカー? でも、口は固く閉ざされてどうやっても開く気配を見せない。黒い衣の男が両腕を大きく広げて、希美を囲いこもうと迫ってきた。その様子に思わず、昨日の午後、自分にのしかかってきた上野宏一の姿を重ねあわせてしまった。希美は反射的に身を縮めて、心の中で叫んだ。――っ助けてッ!!
 それへ応えるように、求めてやまない声が囁いた。「大丈夫だよ、希美ちゃん。僕が必ず君を守るから」
 正樹さんがそばにいる。そう思うだけでずいぶん心強い。希美は腕をやたらと動かした。刹那、大きくてあたたかな掌が触れた。それはほんの少しの間だけだったが希美の手を握り、すぐにほどかれて、離れていった。希美は「ありがとう」と呟き、目蓋を閉じた。両親の姿や思い出が、婚約者の笑顔と思い出が、脳裏を過ぎ去っていった。遠くの方で黒い衣の男の断末魔の悲鳴が轟き、海が揺れて波が逆巻き……やがてそれは徐々に収まっていった。希美は急に体が軽くなったような気がした。豊かな黒髪をあたりに散らした希美を、海は優しく浜辺へ誘った。月が情け深い眼差しでその様を見守っていった。
 砂浜では藤葉と合流した彩織と美緒が、田部井と共に希美の名前を叫び、探していた。□

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