第2560日目 〈『ザ・ライジング』第5章 20/24〉 [小説 ザ・ライジング]

 黒い衣の男は去った。消えたのだ。もう姿を現して冥土に手招くこともないだろう。私が死を望まない限りは決して――。
 澄みきった空を見あげると、無数の星が瞬いていた。いまにも降ってきそうでそら恐ろしい気分さえする。希美は己を岸へ寄せてゆこうとする波に身を委ね、虚空に向かって「ありがとう」と呟いた。開かれた目から涙がこぼれた。真珠の輝きに似た大粒の涙が頬を伝い、海へぽちゃりと落ちた。あの人は……正樹さんは身を挺して(っていうのかな。間違えている気がしないでもないけれど)私を助けてくれた。死んでしまってもなお、婚約者の危機に駆けつけてくれた。西部劇の騎兵隊みたいに……ありがとう。死者も愛するってパパがいってたけれど、それってこういうことなんだね。そうなんでしょ、あなた?
 闇の中から「そうだよ、もちろんさ」と白井が応えた。「ついでにいえばね、死者も歌うんだよ」
 希美は声のした方へ視線を流した。少し離れた海上に白濁した光の筒が伸びていた。その中心に黒い粒子が集まって、影法師になってゆく。それは人間の姿になり、容姿を整えていった。光の筒はそれに反比例して薄くなりはじめた。白井正樹の上半身だけが波の上にあった。彼は生前となんら変わらぬ眼差しで希美を見つめている。
 「正樹さん」と希美はいった。一昨日の宵、緑町の自宅のそばで別れたのが、もう何十年も前の出来事に思えた。最後に逢ったときの姿ではあったが、印象はずいぶんと異なった。まるでセピア色にあせた一葉の写真を眺めるような奇異を感じた。私の夫になるはずだった愛しい男性。「あなたの奥さんになりたかったな……」
 白井の手がすっと伸びて、希美の掌を包んだ。この掌を握ることはもうないんだ、と希美は思った。嗚咽が喉までこみあげてきた。涙をこらえるように唇を噛んだ。目頭が熱くなり、涙に視界が曇った。泣かないで、と白井が語りかけてきた。僕まで泣きたくなっちゃうよ。希美は小さく、うん、うん、と頷いて、白井の掌を握り返した。彼は腕に力をこめて希美を立ちあがらせた。そっと肩に手を寄せた。
 そのとき、希美は気がついた。夜空が表情を変え始めたのを。わずかにちぎれて浮かんでいた雲がすごい勢いで南の空の彼方へ移動してゆく。闇の統べる空は黄金色に照り輝き、刹那の後に再び闇へ色を譲り、空には神秘的な彩りを纏った光の帯が現れ、緑色を基調として、ゆらめいて形を変化させた。いつしか光の帯は渦を巻き、奔流となって、空を覆いつくさんばかりの絨毯となって広がっていった。
 光の帯の舞踏はいつしか数千の粒子となって海面へ降り注いだ。幾つかが二人のまわりに音もなく落ちてきた。光に照らされた自分と白井の姿が影となって海上へ伸びてゆくのを、希美は視界の端で捉えた。
 刹那の後、希美はそっと抱き寄せられた。これまでのどの抱擁よりも官能的で居心地のよいそれだった。白井の胸に頬を寄せ、掌をあてた。ともすれば心臓の鼓動も聞こえてきそうだ。結婚したら、と希美は頭の片隅で考えた。ほとんど毎晩、私はここで眠りに就くことになっていたのかもしれない。開いた掌を拳固にし、体を硬くした。これが最後なら、正樹さん、せめて――
 希美は白井の腕から離れ、彼の首に手を回すと、自分から荒々しく唇を重ねた。互いの唇が何度となくぶつかり合い、相手を激しく求め合った。彼がどんな姿だろうと知ったことか。いまキスしている相手は他の誰でもない、私が生涯で初めて本当に愛した男性なのだから。唇を重ねていたのは途方もなく長い時間に感じられた。だが、どんな幸福もいつかは終わりの時が訪れる。希美は唇を離した。唇に残る火照りとときめきと涙の味を、私は一生忘れないだろう。
 お別れだ、と希美ははっきりと悟った。こうして逢うことはもうない。
 「金輪際、死のうなんて思わないよ。もうなにがあってもへっちゃら」と、体が透け始めた白井にいった。気のせいか、白井の顔が安心したようにほころんだ。
 「あなたの分まで生きるから。いつまでも――パパとママと一緒に、正樹さんも見守っていてね」
 白井がにこやかな顔で頷くのを認めると、希美は、てへてへ、と笑いながら手の甲で涙を拭った。力強く、思い切り。
 白井正樹の姿は見えなくなった。周囲には夜半の海の景色が戻ってきている。
 さよなら、と希美は口の中で呟いた。
 それからややあってのことだった。波間に漂う希美が、「ののちゃん!」と叫びながらこちらへ泳いでくる藤葉に気がついたのは。だが、希美にそれへ応えるだけの体力はなかった。□

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