第2572日目2/2 〈綾辻行人『暗黒館の殺人』を読んでいます。〉 [日々の思い・独り言]

 本稿は読書中の小説に関する備忘というか、メモのようなものである。ジャンルがミステリゆえに「もしかしたら……」と思うた事柄はかりにそれが誤りであったとしても、書き留めておくのが最善であろう。
 読書が終わったあとにこれを読み返したら、わたくしは赤面して、それこそ穴があったら入りたい心境に陥り、同時に本稿を破棄したい衝動に駆られるかもしれない。或いは読了済みの方が本ブログをお読みになったら、なんだこの的外れな推測は、と腹を抱えて大笑いもしくは嘲笑の的にされるやもしれぬ。
 が、それはそれでいっこうに構わぬではないか。正解を導き出すだけがミステリ小説を読む愉しみではあるまい。
 ──と、あらかじめ詭弁を弄しておいたところで、では、本題。

 『暗黒館の殺人』は綾辻行人によるゴシック小説でもある。そも人里離れた場所に一軒だけぽつねんと建つ、まわりの人々の訪問を拒むかのような趣の館が舞台で、そこに住むなにやら曰くありげな人々と外部から(必然か偶然かは置いておくとして)やって来た者が登場し、後者が(意図的にか否応なくかは別として)館とそこの住人の秘密の最奥=核心、心臓へ迫ってゆく──。それがかつてヨーロッパの読書界を席巻し、現在に至るまで細々と命脈を保つゴシック小説の定石である。
 海外の幻想文学に魅せられた当初から、退屈極まりない、とまで腐される(揶揄される)ゴシック小説を好んできた。<館>シリーズ、就中『暗黒館の殺人』に触れて郷愁というか懐かしさを覚えたのは、そんなところに由来するのだろう、と自分では分析している。
 19世紀末、正統ゴシック小説の到達点と呼んでよい長編小説がイギリスで生まれ、瞬く間にヨーロッパのみならず新大陸アメリカにまで波及した。ブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』がそれだ。
 なお、これの読書には、小説としての面白さや雰囲気を第一とするなら平井呈一訳の創元推理文庫版、小説を読む醍醐味の一切を犠牲としてでも正確さのみを追求した、ただの英文和訳で構わぬならば新妻昭彦と丹治愛共訳の水声社版をお奨めする。この水声社版がお奨めできるのはひとえに完訳である点と精細な註釈のある点。それ以外にお奨めできるポイントは、ない。
 話が横道に逸れたけれど、ここで『吸血鬼ドラキュラ』を唐突に持ち出したのはゆめ奇を衒っての話ではない。
 浦登玄児、その文庫版を読み進めるにつれて、本作がますますゴシック小説に相応しい闇を纏ってゆくのと同時に、『吸血鬼ドラキュラ』或いは吸血鬼小説全般を意識したモティーフが次第次第に目に付くようになってきたからだ。暗黒館の当主一族の姓が、ドラキュラ伯爵のモデルとなった実在のルーマニア王ヴラド・ツェペシュを思わせる「浦登」。初代当主の妻ダリアの出身国が、吸血鬼小説と浅からぬ縁を持つイタリア。これだけでもじゅうぶんに、ねぇ……連想するな、という方が無理な話である。
 わたくしがかの一族を吸血鬼もしくはそれの変形種と思うに至ったのは、むろん読書中の現時点では憶測でしかないし、読み終わってみれば失笑するより他ないかもしれないけれど、第2巻P179を読んでいたときだった。語り手「中也」に向かって館の住人のひとり、語り手を暗黒館に招いた浦登玄児がいった一言、──君ももうわれわれの仲間なんだよ。仲間とは? 第1巻のクライマックス、年に一度の浦登家の秘儀、<ダリアの宴>。一族の者のみがその日に執り行われるこの宴に、語り手は特別に参加を求められ、<肉>と呼ばれるものを食す羽目になった。その翌る日からだ、かれが一族の関係者と見做され、前述の如く仲間と称されるようになったのは。
 こう思うのだ、宴に列席して肉を食したことで語り手は、吸血鬼とそれに血を吸われた者、言い換えれば支配者と被支配者に等しい関係性を持ったのではあるまいか、と。うぅん、なんていえばいいかな。宴に列席して肉を食したことで語り手「中也」は浦登一族の秘密を共有し、一族に縁故ある者として認識された──言葉を変えれば、一族の秘密という底無しの闇に囚われ、取りこまれた。そんな風にわたくしは思うのだ。
 かてて加えて、館は常に闇の色と血の色に包みこまれ、外光は色附きの磨りガラス窓や閉ざされた鎧戸の隙間から洩れてくるぐらいが精々なのだ(おまけに外は嵐/台風で昼でも太陽の日差しが届かぬ状況である)。
 「百目木峠の向こうの浦登様のお屋敷」には近附くな、あすこには良くないものが棲みついているから。館にいちばん近い集落I**村では昔からそう囁かれて、守られてきた(村の少年、市朗はその禁を破ったがために恐ろしい目に遭うわけだが)。
 浦登家と縁戚にあって館に泊まりこんでいた自称芸術家の首藤伊佐夫は自分の芸術の目的は「神と悪魔の不在の証明」にある、と語り手に話して聞かせた。そうして語り手「中也」はキリスト者である。
 これらを以て件の一族をアンチ・キリストたる吸血鬼もしくはその変形種と憶測するのは、けっして無理な話ではあるまい? そういえばキリスト者に己の血(本作では肉)を呑ませて汚れた者(魂)に堕として自分の陣営に引きずりこむ、という図式はスティーヴン・キング『呪われた町』にも見られた。
 シャム双生児姉妹が語り手に話す、初代玄遙と玄児は「特別」で、彼女たちの父浦登柳士郎は「失敗」(なのかもしれない)、そうして成功した者はまだいない。この文脈でゆけば、吸血鬼と人間が交配した結果、館を離れて人間と同じく陽光の下でも生活できる者を「成功」と呼び、そうでない者(生者でも死者でもない、そんな曖昧な状態にあって惑っている者、と捉えられる)を「失敗」と呼んでいるのか。「特別」とは特定条件下でありさえすれば暗黒館を離れて活動することも可能な存在、か。
 また、このシャム双生児姉妹──美鳥と美魚が「中也」に求婚して、困惑するかれを救うように玄児が登場する一連の場面は、『吸血鬼ドラキュラ』にてドラキュラ城に泊まるジョナサン・ハーカーを誘惑する3人の女吸血鬼と伯爵が現れてそれを追い払う場面に重なってくる。
 言い足せば、暗黒館の中庭の、一位の植えこみに四方を囲まれた<惑いの檻>と呼ばれる墓所は、いってみれば初期キリスト教会/帝政ローマの時代、その帝都の地下に建設された共同墓所(方コンペ)と同じなのだろう(中庭ではないけれどドラキュラ城にも同種の墓所が存在しており、そこにドラキュラ伯爵やハーカーを誘惑した女吸血鬼たちが眠っている)。そのローマはイタリアの首都、イタリアは玄遙の妻ダリアの故国だ。地下墓所に安置される棺には吸血鬼が眠っている。「檻」とは不死なる吸血鬼たちを閉じこめておく、その魂が彷徨い出ぬよう封印している場所の形容なのだろう。──嗚呼、まさしく定番の図式ではないか。もっとも、この連想、この図式さえも著者があらかじめ想定していたミス・ディレクションの類であったなら、喝采せよ、わたくしはミステリ小説の好き読者であることが証明されたに過ぎぬ。深読みしすぎ、穿ちすぎ、騙されやすい、エトセトラエトセトラ。
 序でに邪推すれば、昔玄児が十角塔に幽閉されていたとき、食事の差し入れなど面倒の一切を見てくれていた諸居静は「中也」の実母なのではあるまいか。彼女がその後館を出てゆく際連れていったわが子とは他ならぬ「中也」ではなかったか。為に東京でかれを見附けた玄児は白山の自宅に、訳あってのことだが住まわせ、暗黒館に誘ったのではないのか。
 ああ、さて。
 以上は『暗黒館の殺人』第2巻P288まで読み進めた、2017(平成29)年5月10日午前時点での所感(推理? 否、憶測だね、やっぱり)である。思うたこと、考えたことを綴ってみたのだ。全巻を読了してみれば、吸血鬼云々の話は完全なる的外れかもしれない。そのときはそのとき。この時点でわたくしはこう考えました、でも実際のところはどうなんでしょうね、というに過ぎぬのだから。が、この『暗黒館の殺人』が著者が現代風にアレンジしたゴシック小説である、という意見を引っ込めるつもりの微塵もないことはお伝えしておきたい。

 これは中間報告もとい備忘である。『暗黒館の殺人』の感想は全4巻を読み終えたら改めて、ゆっくりと筆を執るつもりだ。◆

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