第2611日目 〈A.Aミルン『赤い館の秘密』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 作者アラン・アレクザンダー・ミルンは初めてのミステリ小説『赤い館の秘密』を、ミステリ小説好きの父親を喜ばせんがために執筆した。父ジョンは私立学校の経営者であったが、標準的英国人らしくミステリ小説を日々の慰みのようにして、好んで読んでいたようだ。
 ジェームズ・ヒルトンのチップス先生も間借りする部屋へ置いた書棚のいちばん下の段に、廉価版のミステリ小説をぎっしり詰めこんでおり、ちょっとした隙間時間に好んで読んだという。おそらくはミルンの父君も同じように仕事と家庭の狭間の、独りに帰れる時間に読書へ没頭していたのだろう。
 『赤い館の秘密』の「献呈」に曰く、「長年お世話になったお返しに、せめてぼくにできることは、その推理小説をお父さんのために一作書くことでした。そして出来上がったのが、この作品です」(P9)と。
 父親を意識して書いたミステリ小説といえば、連城三紀彦が即座に思い出されるけれど、あちらがミステリの極北を目指してひたすら深化・純化していったのに反してミルンの方は、……
 『赤い館の秘密』はプロットもストーリーもキャラクターもトリックも、いずれを取り挙げても至極単純である。集英社文庫版に一文を寄せた赤川次郎は、犯人もトリックもすぐに見破れた、と述べているが、然り、犯人には最初から疑惑の目が向けられており、状況証拠や証言の数々から読者は早い段階で「たぶん/きっと、○○を殺害したのは○○だろう」と推理できる。
 トリックについても、睡魔等に惑わされて読み流したり、ちょっと退屈になってきたから読み流しちゃえ、なんて不届きな行為に走りさえしなければ、見破るのは容易だ。探偵やその相棒と共に行動して同じものを見、同じことを聞き、立ち止まってそれまでの収穫について検討を加え推理を巡らせ論理を組み立てるならば、かならずや疑惑が確信に変わり、事実であることが証明される瞬間の法悦を味わえることだろう。おためごかしの発言ではない。告白すればわたくしだって物語が半分ばかり進んだところで、犯人こいつだろう、動機はこれだろう、トリックはこんな風だろう、とわかってしまったのだ。
 斯様にミステリ小説としてはフンドシのゆるい『赤い館の秘密』だが、それが江湖の読者を意識して書かれた作品ではなく、専ら父親への想いが長編ミステリ小説を書くという意欲に先行して結実した作品であるのを思うと、黄金時代の傑作名作に比してやや見劣りがしてしまうのも宜なるかな、というところだろう。われらは本作を読むとき、そこに家族へ注ぐミルンのたっぷりな愛情を感じ取る必要があるのかもしれない。
 『赤い館の秘密』は上質のミステリである。が、それは謎解きの醍醐味やトリックのあざやかさ、緻密なプロットなどを取り挙げての惹句ではなく、本作に漂うユーモアや清潔さ、からっとした明るい雰囲気といった点を指してのものだ。英国人の心をくすぐるカントリーハウス物というところも、点を高くしている要素のひとつだろう。そのシンプルさ、そのひねりのなさ、その読みやすさが『赤い館の秘密』の魅力である。
 『赤い館の秘密』以後のミルンに、ミステリ小説を書き続けてゆく意欲/願望があったのか、或いは(如何なる理由にせよ)『赤い館の秘密』1作だけのつもりだったか、そのあたりは定かでない。しかしながらたった1作、しかもそのジャンルへのデビュー作でミステリ史に残るのみならずエポックメイキング的役割──素人探偵の創造、カントリーハウス物の原点、ユーモアミステリ/コージーミステリの見本、etc, etc──を果たした作品は、そう多くない。
 『赤い館の秘密』はそんな意味でも歴史と記憶に残るべき作品なのだが、もし本作に不幸があるとすれば作品それ自体にまつわることでなく、あの『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、という触れ込みで名を留めた可能性が多分にあることだ。果たして誰がそれを全面否定できようか? 『赤い館の秘密』を紹介する際いったいどれだけの人が、『くまのプーさん』の作者が書いたミステリ小説、と触れてまわったことか。疑われるならば、さぁどうぞ、グーグル先生へお訊ねになるがよい。
 どんな心づもりであったにせよ、このあとミルンは『四日間の不思議』というこれまた楽しい長編ミステリ小説を物し、幾つかの短編を残した。戯曲で腕を鳴らしたミルンのことだから、こちらの方面でもミステリ作品を書いて上演されれば斯界の評判も上々だったようである。これらのうち何作かは幸いなことに、日本語になっているので大型書店や公共図書館で手にすることが可能だ。
 ミステリの諸要素に瑕疵が目につく作品だけれど、却ってシンプルで読みやすいのも事実。まったく深刻さの影もない、ひたすらのんびりとした、<春風駘蕩>としか形容のない蕩けるような時間の流れる、綿菓子のように甘い口当たりの『赤い館の秘密』。海外ミステリ小説の入門にはぴったりな1作、このジャンルに読み疲れたときの口直しにオススメな1作である。つまり、素人にも玄人にも。◆

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