第2614日目 〈イーデン・フィルボッツ『赤毛のレドメイン家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『赤毛のレドメイン家』を読んでいるとその悠然とした情景描写、細かな心理描写、微に入り細を穿つ人物描写に陶然となる。黄金時代本格ミステリの名作を読んでいる、というよりも、19世紀から20世紀初頭に書かれて親近してきたイギリス文学のメインストリームへ接しているような、そんな既視感に襲われることもしばしばあった。
 イーデン・フィルボッツ(1862〜1960)は生前トマス・ハーディと人気を二分した田園小説の大家で、1927年には20巻から成る全集が刊行されるぐらいの文壇の重鎮であった。そんな人物がミステリの筆を執った。日本風にいえば還暦すこし前からミステリ小説を刊行しているとのことだが、仄聞するところでは若い頃より推理や怪奇の味わいのある作品を発表していた由。『赤毛のレドメイン家』は1922年、フィルボッツ60歳の作品である。
 もともとイギリスという国は純文学作家でも生涯に何作かのミステリや怪奇小説を書くような伝統があって、しかもそれがジャンルのマスターピースになっていることが多いから、フィルボッツが公然と本格ミステリ小説を還暦間際に刊行して、以後も秀作を発表し続けたことになんら不思議はない。というよりも、イギリス文学そのものがミステリ小説のスタイルをまとっていることが多いのだから、フィルボッツのような経歴の作家がミステリ市場に顔を出すのも当然といえば当然であろう。
 『赤毛のレドメイン家』の舞台は前半がイギリス・ダートムア、後半はイタリア・コモ湖。フィルボッツの筆はダートムアを描いてドイルの『バスカヴィル家の犬』とはまた違った陰鬱寂々の光景を読者の心胆を寒からしめ、コモ湖一帯を描いて前半とは打って変わった草木一本に至るまで太陽に照らし出された楽園のような光景を現出させる。
 ダークネスなダートムアを背景に展開するのは美しき未亡人を巡るロンドン警視庁の警部とイタリア人男性の恋の鞘当て、シャイニーなコモ湖ほとりの明媚な場所で着実に遂行されてゆくのは残忍な犯人と名探偵の頭脳戦。言葉を費やし筆を尽くして舞台となる地が描かれているからこそ、登場人物も血が通い肉を備えた生身の人物となり得るのだ。
 同時代に書かれたミステリ小説を見渡しても(もちろん、翻訳されているもののなかで、という前提になってしまうのだが)、『赤毛のレドメイン家』ぐらい人物と心理、或いは情景の描写が細かくされている作品はないように思う。このような点がおそらく現代の読者に敬遠されて、鈍重・退屈・冗長などと拒まれているのかもしれない。
 が、小説は常に時代の風潮を反映する。『赤毛のレドメイン家』が発表された1920年代イギリス文学のトレンドはジョイスやエリオットに代表されるモダニズムであったけれど、ディケンズやサッカレーが活躍したヴィクトリア朝の文学様式がいっせいになりを潜めたわけでは当然、ない。時代の旗手的役割は他へ譲ったと雖も、まだまだ往時の作家はじゅうぶん健筆を揮っていた。
 フィルボッツの場合はたまたま田園小説よりもミステリで、殊日本では知られるようになったから、かれが現役であった時代の小説のスタイルや特徴など背景にじゅうぶんな注意を払う作業を怠った連衆が、己の一知半解を棚にあげて槍玉に挙げているだけのように思えるのだ。ジャンル小説一辺倒の読者が陥りやすい弊害といえようか。
 『赤毛のレドメイン家』の場合、情景描写と人物描写に力が注がれていたけれど、『闇からの声』(1925)になると犯人の心理描写に重点が置かれていることから、フィルボッツはこれまでの田園小説では描くことが難しかった人物を創造することに関心を向けた様子である。
 『赤毛のレドメイン家』の犯人もなかなか狡猾で残忍・無情な悪党であったけれど、『闇からの声』の犯人はそれを上回る存在として登場する。が、いずれも人物描写/キャラクター造形の確かさがあるからどれだけ卑劣なことをやってのけても、抗いがたい強い魅力を備えた人物として、探偵役よりも深い印象を残すのだった。
 ──イギリスのミステリ作家のなかでキャラクター造形がうまいのは誰か、と問われたらアガサ・クリスティの名はいっとう最初にあげられるだろう。そのクリスティにはデビュー前のちょっと知られた逸話がある。小説家を志していた少女の時分、隣の家に住んでいたずうっと年上の、文壇の長老格であった人物に創作のアドヴァイスを請うた。その後、彼女は夢を実現させて1920年に『スタイルズ荘の怪事件』でデビュー、以来半世紀になんなんとするキャリアの第一歩を踏み出した。が、流行作家になってもデビュー前に受けた恩情を忘れることはなかったようだ。彼女は『エンド・ハウスの怪事件』(1932)を件の大先輩にささげて感謝を表している。その先輩作家こそ、『赤毛のレドメイン家』の作者イーデン・フィルボッツであった。◆

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