第2623日目 〈ヘンデル《メサイア》;初めて出会った音盤が、最上の演奏であった……。/A.デイヴィス=トロント交響楽団による旧盤を聴いて。〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 クリスマスに聴く機会の多い合唱曲の最右翼が、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》。タイトルからお察しいただけるように、イエス・キリストの生涯を描いた作品であります。でもけっしてクリスマスに所以のある曲でもない。
 実はこの曲、わたくしをクラシック音楽に開眼させた作品の1つで、あとはホルストの《惑星》とワーグナーの《ヴァルキューレ》、ベートーヴェンの《第九》とシュトラウス一家のワルツ、と、ちょっと脈絡がありません。なかでもヘンデルは特異というてよい出会い方をしており、近所のレンタル店で偶然見附けて、わけもわからず借りて来て、強烈に印象に残った音盤だったのであります。
 演奏はアンドルー・デイヴィス=トロント交響楽団、キャスリーン・バトル(ソプラノ)、フローレンス・クィアー(アルト)、ジョン・エイラー(テノール)、サミュエル・ライミー(バリトン)、トロント・メンデルスゾーン合唱団、という布陣の2枚組CD、国内盤(EMI)。1986年12月22〜23日にカナダはオンタリオ市で録音された……時期的にライヴレコーディングかと思うたら、特になんの記述もない。カセットテープに録音してヘビーローテーション、たぶんいまでもそれはどこかにあるはずだが、見当たらない。
 見当たらないといえばつい先年に購入した、ずっと捜し歩いていた国内盤の全曲CDも、見附からない。筆を執るまでずっとCD棚を漁っていたのだが、不思議なことに行方不明。心当たりのある場所も捜索してみたけれど、捜し物は見附からない。捜し物はなんですか、見附けにくいものですか、と斉藤由貴の歌の一節が脳裏を過ぎることしばしばだったが、その度「そうだよ!」と合いの手を入れてみたりね。
 けっきょく国内盤の探索は諦めて、その数年前に購入していた輸入盤全曲を引っ張り出してきて、聴いています。
 《メサイア》には幾つかのヴァージョンがあって、そのどれもが最近では音として聴ける便利な時代になった。デイヴィス盤は作曲家ユージン・グーセンスがトーマス・ビーチャムに依頼されて編曲したヴァージョンを採用している由。さりながらこのデイヴィスの旧盤、グーセンス版へ全面的に依拠した演奏でもないらしい。
 でも、正直なところどんなヴァージョンの楽譜を用いていようと、あまり大した問題ではないのです。肝心なのは、デイヴィスによるこの演奏がすばらしく感動的で、他の録音を聴いてもここに立ち帰ってくるという事実。わたくしにとって《メサイア》演奏のマスターピースである、という動かしがたい事実なのであります。
 たまたま学生生活を御茶ノ水・神保町界隈で過ごしたせいで、講義のないときは中古レコード屋に日参、安いLPレコードを購っておりましたが、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーのオペラ、ビル・エヴァンスとソニー・ロリンズ、ウィンダム・ヒルのアルバムと並んで、《メサイア》のLPも余程の価格でなければ時偶買いこんでいました。
 そんなことから《メサイア》をいろいろな人の指揮で、オーケストラで、ソリストと合唱団で、今日に至るまで聴いてきました。が、初めて聴く音盤に出会うと決まってドキドキワクワクするけれど、それはたいてい期待値が高すぎたがゆえの不完全燃焼で終わる。なかなかデイヴィス盤の感動を上書きする程の演奏とは、出会えないんですよね。
 わたくしが《メサイア》でいちばん好きなのは、第1部第12曲「ひとりのみどりごがわれらのために生まれた For unto us a Child is born…」という、「イザヤ書」第9章第5節(*)を基にした合唱なのですが、デイヴィス盤が軽やかななかにも優雅さと清らかさを湛えているのに対し、他の有名指揮者による<名盤>とされている演奏からこの曲を聴いてもなんだかなおざりな演奏で、惚れ惚れするような想いを抱くことができた試しがない。法悦をまるで感じない演奏の目白押しなのだ。ここさえ納得できる演奏であれば、それだけで一段上の遇し方をするのだが……つまり腰を据えて第1部第1曲から第3部第8曲まで通しで何度も聴いてみるのだが……大概は1度切りの通し視聴で終わる……われながら不幸な聴き方をしているな、と思うが時間は有限なのだ、すべての音楽に深々と淫してばかりはいられない。
 それにしても、有名な〈ハレルヤ〉ですが、1743年ロンドン公演時、時の国王ジョージ2世が途中で起立して観客もそれに倣い、爾来慣習となったてふ。史実でないというのが大勢とのことですが、さもありなん、と首肯させてしまう説得力を持った合唱であります。
 しかしながら、極東の島国である日本、人口のうちキリスト者の占める割合の多くないこの日本で、やはり同じように〈ハレルヤ〉コーラスになると、待ってました、とばかりに全員立ちあがるのはどうかと思いますな。同じ阿呆なら踊らにゃ損損、参加することに意義がある、とでもいわんばかりの勢いで総勢が立ちあがる光景は、まったく以て異様であります。節操がないというべきか、柔軟性が高いというべきか……或いはイヴェントとして愉しもうというのか……本来の趣旨からずれた慣習になんの疑問もなく迎合してしまえるのは、やはりクリスマスの魔力なのでしょうか。
 先祖の神を捨ててバビロニアやシリアの悪しき慣習を迎え入れることに抵抗なかったイスラエル/ユダヤの民と日本人は、あんがいと通じあうところがあるのかもしれませんね。
 ヘンデルは作曲の筆がなかなか進まないとき、部屋の天井の片隅を何時間も見あげていた。そんなエピソードを、図書館から借りた渡部恵一郎『大音楽家・人と作品15 ヘンデル』(音楽之友社)で読んだ記憶があります。それが事実であったか、確かめるためにも今度は自分のために古本屋で探し購い、これを頼りに《メサイア》以外は《水上の音楽》と《王宮の花火の音楽》、《合奏協奏曲》しか聴いたことのなかったヘンデル作品の録音を、しばらく追っ掛けてみようかな、併せて今回取り挙げた音盤のライナーノーツに載る英語歌詞はどの英語訳聖書に拠っているのか調べてみよう、と企てているクリスマス・イヴなのでした。◆

*「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。/ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。/権威が彼の肩にある。/その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(イザ9:5 新共同訳)
 Wikipediaは《メサイア》構成の項で第1部第12曲の出典を『イザヤ書』9:6とする。どの聖書に拠った記述であろうか? 手持ちの聖書を軒並み点検したが、ここを第9章第6節とするものは見つからなかった。当該項目を執筆した方がこれをお読みであれば、是非ご教示いただきたいのである。■

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