第2625日目 〈「ダニエル書」が書かれたのって、いつ頃なんだろう?〉 [聖書読書ノートブログ、再開への道]

 旧約聖書<預言書>のパートに収録される第27の書物、「ダニエル書」。他の書物が概ね1種のカテゴリーへ分類されるのに対して、「ダニエル書」全12章は前半6章が歴史物語、後半6章が黙示文学という一風変わったスタイルを持つ。
 まぁ歴史物語はあまり固有名詞や史実、年代に拘泥することなく書かれた内容を愉しめばそれでよいのだけれど、黙示文学のパートはいろいろ含蓄多く調べること多く考えこまされるところ多く……つまり一筋縄ではいかないのである。
 読むのに難渋することがあるのは「ダニエル書」に限らず黙示文学の常だけれど(特に「エズラ記(ラテン語)」な)、いちばん大きな関心を寄せてしまうのが成立年代にまつわる事柄だ。毎日毎日、聖書読書ブログを書いていた頃からそうだったけれど、わたくしは書物の成立時期や著者、書かれた(編纂された)場所などについての揣摩臆測を巡らせるのが好きらしい。「ダニエル書」に即してそのあたりを述べてゆくと、──
 作中のダニエルが生きるのはバビロン捕囚期、所はバビロニアやメディア、アケメネス朝ぺルシアの王宮内である。が、わたくしは先程あまり固有名詞や史実、年代にとらわれずに読むが宜しかろ、と記した。ベルシャツァルをバビロニア王(ダニ5:1他)とするのは、かれが新バビロニア帝国最後の王ナボニドスの王子と雖も摂政として帝国の国政を司り、第3の王と呼ばれたこともあるから言葉の綾の範囲で収められようが、たとえばメディア王ダレイオス(ダニ6:1)とは誰であるか? それはバビロニアを倒してオリエントの覇権国家となったペルシアの王の名である……が、ダレイオス1世の登場は捕囚解放を宣言したキュロス1世よりも3代あとの為政者なのだった。
 むろん、すべての記述が時系列で進むとは決まっていないのだから、そのあたり、シャッフルされて編纂・編集されても別段問題はない。逆にいえばそれはダニエルの活躍期間の長さを必然的に物語ることとなり、想像を逞しうすればエルサレム帰還団の面々や後にかの地へ派遣されるエズラやネヘミヤとの面識ありやなしや、なんて考えてしまうのだね。
 それはともかく。
 そも実際のところ、ダニエルなる捕囚民が実在したかすら定かでない。それでもその名を冠した一風風変わりな書物は書かれ、編まれ、収められ、伝わった。──そうしてそこに「ダニエル書」の成立時期を示唆するヒントがある。
 「ダニエル書」はその後半、黙示文学のパートで数々の幻による未来予見を綴った。それはバビロニアが滅びてメディアが興り、ペルシアが覇権を握ってギリシアの前に倒れ、そのギリシアも分裂してそこからオリエントを揺るがす卑しむべき王が出現する、という内容だ(ダニ7-12)。
 卑しむべき王(卑劣な王、という方がより正しいように思われる)こそセレコウス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスだが、「ダニエル書」はその最後にかれの出現と暴虐をそれまでは見られなかった密度で精細に描いてみせる。第11-12章で描かれるのはセレコウス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの小競り合い、そうして汚される<麗しの地>エルサレムの様子……。つまりマカバイ戦争前夜の緊張した空気と防ぎようもない悪の侵攻が塗りこまれているのだ。
 ここで着目すべき点は、アンティオコス4世の数々の所業こそ記されているものの、その死については微塵も描写されていないことだろう。アンティオコス4世エピファネスの到来と所業はたしかに「ダニエル書」で予告されている。それらは「卑しむべき者」(ダニ11:21)と罵られるシリア王がしでかした数々の行いでもあるのだけれど、じつは「ダニエル書」のどこをどう読んでもアンティオコス4世の死は描かれていない。もし本書がシリア王の死後に書かれ、成立したならば、ダニエルが視た幻にそれはあったはずだ。
 人々──学者はそれゆえに本書の成立年代を斯く想定し、それは概ね受け入れられているようである……「ダニエル書」は前164年に成立した書物であったろう、と(加藤隆『旧約聖書の誕生』〔ちくま学芸文庫〕など)。第11-12章の出来事、そうしてそれ以前の第7-10章でダニエルが視た幻とその解読は、これから起こる出来事にまつわるものではなく、とってもちかい過去と現在進行形の出来事をむかしの人の幻に仮託して綴ったものだったのだ。現実と幻が重なり合う様子も至極もっともなお話だよね、うん。
 前164年……
 まず、アンティオコス4世が軍資確保のためペルシア遠征を決め、セレコウス朝の国事と王子の養育をリシウスに任せて出発した。リシウスは軍勢をまとめてユダ・マカバイ軍とイドマヤの地で激突したが、撤退を余儀なくされた。
 シリア軍がアンティオキアまで退いて体勢を立て直している間、ユダ・マカバイは兄弟や同志たちとエルサレムへ。かれらは荒廃した都と神殿、祭壇を見て嘆き、奮起し、汚辱にまみれた聖所/神殿を修繕して清め、焼き尽くす献げ物をささげて祭壇を新たに奉献した。「民の間には大きな喜びがあふれた。こうして異邦人から受けた恥辱は取り除かれたのである。」(一マカ4:58)
 神殿奉献と時を同じうしてユダたちは都に堅固な砦を高い城壁を築き、敵からの攻撃に備えた。遠征先でそれを聞いたアンティオコス4世エピファネスは種々の心労もあって倒れて寝こみ、回復することなくそのまま崩御した(一マカ6:16)。
 これらが前164年の出来事。シリア王の死がこの年のいつだったか伝えられてないけれど、「マカバイ記 一」の記述を信じれば、エルサレムで神殿奉献がされて以後、その年が暮れるまでのわずか数日のことだろう。「ダニエル書」がアンティオコス4世の所業について斯くも的確に述べてながらその死を暗示させる文言が、どこにも見当たらない事実。これぞ「ダニエル書」を前164年頃の成立と仮定させる、そうしてもっとも有力な説の背景である。
 ──「ダニエル書」内のエピソードの数々が捕囚時代の事どもとしながら実際は<現在>、just nowの出来事を語っていると知れば、「黙示文学」と呼ぶことに疑問を抱き、ささやかな抵抗を感じてしまうこと、なきにしもあらず。が、黙示文学が未来の予告と救済約束・信仰堅持を促すジャンルであるのを考え合わせれば、シリアの暴政・圧虐を伝えるのに加えて同朋への抗戦を求め訴え、やがて来たるべき勝利と民族の復権という希望を封じこめ、喧伝する──まさにプロパガンダだ──本書もまた、一種の「黙示文学」と呼んでよいだろうか。
 ちなみにユダたちによる神殿奉献は第148年第9の月、──キスレウの月──25日に行われた。つまり前164年12月25日である。そうして、「ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした」由(一マカ4:59)。これがユダヤ教の「ハヌカ祭」の謂われである。◆

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