第2660日目 〈太宰治『お伽草紙』読書がはかどらないのは、活字が小さいせいかなぁ?〉 [日々の思い・独り言]
【前回の太宰治】
「新釈諸国噺」の読書が進まぬことに悄然としたわたくしは、顧みて自分が西鶴始め浮世草子の類に愛着等がまるでないためだ、と判断。ひとまずの溜飲をさげた。が、前稿を間もなく書き終える、という段に至って別の原因に思いあたる──。
「新釈諸国噺」に限らず文庫『お伽草紙』を読み進められないのは、どうしてだろう? ずっと考えていた。するうち、はた、と思い当たる節があるのに気附き、妙に納得させられたことである。
既読の文庫と較べてこの『お伽草紙』、活字のフォントが小さいよね。それが原因?
これをどこで購うたか、もはや記憶にない。後の理由から、古書店/新古書店であろうと思われるが裏附けできる証拠は、残念ながら一つもない。
が、過去に読んでいまは書架にて一時的ながら眠りを貪る新潮文庫版太宰治作品集は、いずれも活字のフォントが大きなタイプであったように記憶する(従来の面倒臭がりが遺憾なく発揮されているゆえ、実際の確認はできていないが……)。すくなくとも活字の大きさがネックとなって読み倦ね、読書行為そのもの敬遠には結び付かなかったことだけは、はっきりしている。
そこで思い立ったのが本書と、活字が大きかった『晩年』のフォントサイズを比較してみることだった。調べてみましょう、モナミ。
──『お伽草紙』は30ポイント、けっして小さいとはいえないサイズだ。10年ちょっと前までは、これが定番だった。一方、『晩年』は35ポイントである。──わずか5ポイントの違いは読書へ如何様に影響を及ぼすか?
あくまで個人の見解であることを、先にお断りしておく、──
いまでも30ポイントで活字が組まれた文庫を、わたくしは普段からなんの抵抗も支障もなく読んでいる。寝しなの、仰向けになっての読書には向かないからそのときだけは避ける、という程度。いまはちょっと中断している横溝正史の読書も、こちらはわたくしがまだ小さい頃に刊行された文庫だから活字は30ポイントよりも小さく感じるが、それでも読書の中断に影響を及ぼすものではなかった。
が、同じ30ポイント或いはそれ以下のサイズであっても、35ポイントであっても、読みやすさ・読みにくさという点では一つの共通項が見出せる。即ち、改行の頻度である。小さな活字であっても改行が適宜されていれば、文章を追ってゆくのにいったいなんの支障があろう?
が、『お伽草紙』は活字が小さいことに加えて、改行もそう多くはないのだ。句読点の少なさに音をあげる向きもあるようだが、そんなこと、すくなくともわたくしには無縁の悩み。改行云々が決定的要因ではないけれど、それによって読書スピードが総体的に落ち、目の疲れを及ぼし集中力の低下を招き、次第に件の本を手にする機会が遠のいてゆく、という流れは容易に想像できるし、これまでも何度か経験してきたことだ。
目の疲れということに関していえば、次第に乾いてきて目がかすむ、という類のそれではなく、むしろ視力の低下(老化、ともいう)に帰せられる話題である。ここ1年間で、急激に視力の低下を実感しているのだが、加えてピントが合わなくなってきていることも同じように。コレハ由々シキ事態ナノデスヨ、兄弟。
視力検査のあと眼鏡を作り直せば解決する問題なのかもしれない。自覚していながら、自らの怠惰ゆえになかなか行き付けの眼鏡屋さんへ足を向けないのだから、なかなかこの男、始末に負えないね。
ちかごろは本気でハズキ・ルーペの購入を考えている(1.6倍か1.8倍を)のだが、果たしてそれが抜本的な解決をもたらすか、といえば、おそらく答えは「否」と思われる。普段から掛けている眼鏡で、まずは案件の解決を目指すべきであろう。自室でのみならば構わないけれど、カフェや電車のなかで眼鏡の上からハズキ・ルーペを着けるのも手間だし、正直なところ、ちょっと恥ずかしい。そも、持ち歩くことがどこまで想定されて作られているか、わからないしね。
まぁ、ハズキ・ルーペの話題はともかく、プロジェクト達成の意味も含めて「新釈諸国噺」は勿論、『お伽草紙』を飛ばすことなくだれることなく、物語を翫味しつつ読了したい。それはわたくしの、2019年中盤の切なる願い。感受性は鈍ってしまったが、太宰治の作物をもっともっと愉しみたい。その一念からの、願いなのだ。
そこでわたくしは(或る意味で滅法クダラナイ)、一つの実験を試みることにした。即ち、──
他と同じく35ポイントの、改版された新潮文庫版『お伽草紙』を本屋さんで買ってきた。明日から太宰はこちらで読んでみる。果たして浮世草子を苦手とする性向が祟って読み倦ねていた面、けっして否定できぬ「新釈諸国噺」を明日から毎日、わたくしは読んでゆくことができるかどうか。
事情ありまるで読めぬ日もあろうし、1日に1編しか読めぬ日だってあるだろう。それでも、30ポイントの文庫時代とは違い、心理的にも身体的にも負担なく読み進めてゆくことができれば、もうそれを慶事といわずしてなんといおうか? その暁には、諸君喝采せよ峠は乗り越え目の前に広がるは希望に満ちた沃野である、とわたくしは叫ぼう。
できれば今月中に35ポイントの文庫で『お伽草紙』が読み終え、今月下旬か来月へさしかかる頃には、次に読む本として用意してある『二十世紀旗手』を通勤カバンに忍ばせられるといいな。
そんな期待を抱きながら、明日から実験に臨む。結果はかならず、かならずご報告します。
それじゃあ皆さま、おやすみなさい。
【近日公開】
──あれ、読むスピードと物語への没入度、これまでとぜんぜん違くね?◆
「新釈諸国噺」の読書が進まぬことに悄然としたわたくしは、顧みて自分が西鶴始め浮世草子の類に愛着等がまるでないためだ、と判断。ひとまずの溜飲をさげた。が、前稿を間もなく書き終える、という段に至って別の原因に思いあたる──。
「新釈諸国噺」に限らず文庫『お伽草紙』を読み進められないのは、どうしてだろう? ずっと考えていた。するうち、はた、と思い当たる節があるのに気附き、妙に納得させられたことである。
既読の文庫と較べてこの『お伽草紙』、活字のフォントが小さいよね。それが原因?
これをどこで購うたか、もはや記憶にない。後の理由から、古書店/新古書店であろうと思われるが裏附けできる証拠は、残念ながら一つもない。
が、過去に読んでいまは書架にて一時的ながら眠りを貪る新潮文庫版太宰治作品集は、いずれも活字のフォントが大きなタイプであったように記憶する(従来の面倒臭がりが遺憾なく発揮されているゆえ、実際の確認はできていないが……)。すくなくとも活字の大きさがネックとなって読み倦ね、読書行為そのもの敬遠には結び付かなかったことだけは、はっきりしている。
そこで思い立ったのが本書と、活字が大きかった『晩年』のフォントサイズを比較してみることだった。調べてみましょう、モナミ。
──『お伽草紙』は30ポイント、けっして小さいとはいえないサイズだ。10年ちょっと前までは、これが定番だった。一方、『晩年』は35ポイントである。──わずか5ポイントの違いは読書へ如何様に影響を及ぼすか?
あくまで個人の見解であることを、先にお断りしておく、──
いまでも30ポイントで活字が組まれた文庫を、わたくしは普段からなんの抵抗も支障もなく読んでいる。寝しなの、仰向けになっての読書には向かないからそのときだけは避ける、という程度。いまはちょっと中断している横溝正史の読書も、こちらはわたくしがまだ小さい頃に刊行された文庫だから活字は30ポイントよりも小さく感じるが、それでも読書の中断に影響を及ぼすものではなかった。
が、同じ30ポイント或いはそれ以下のサイズであっても、35ポイントであっても、読みやすさ・読みにくさという点では一つの共通項が見出せる。即ち、改行の頻度である。小さな活字であっても改行が適宜されていれば、文章を追ってゆくのにいったいなんの支障があろう?
が、『お伽草紙』は活字が小さいことに加えて、改行もそう多くはないのだ。句読点の少なさに音をあげる向きもあるようだが、そんなこと、すくなくともわたくしには無縁の悩み。改行云々が決定的要因ではないけれど、それによって読書スピードが総体的に落ち、目の疲れを及ぼし集中力の低下を招き、次第に件の本を手にする機会が遠のいてゆく、という流れは容易に想像できるし、これまでも何度か経験してきたことだ。
目の疲れということに関していえば、次第に乾いてきて目がかすむ、という類のそれではなく、むしろ視力の低下(老化、ともいう)に帰せられる話題である。ここ1年間で、急激に視力の低下を実感しているのだが、加えてピントが合わなくなってきていることも同じように。コレハ由々シキ事態ナノデスヨ、兄弟。
視力検査のあと眼鏡を作り直せば解決する問題なのかもしれない。自覚していながら、自らの怠惰ゆえになかなか行き付けの眼鏡屋さんへ足を向けないのだから、なかなかこの男、始末に負えないね。
ちかごろは本気でハズキ・ルーペの購入を考えている(1.6倍か1.8倍を)のだが、果たしてそれが抜本的な解決をもたらすか、といえば、おそらく答えは「否」と思われる。普段から掛けている眼鏡で、まずは案件の解決を目指すべきであろう。自室でのみならば構わないけれど、カフェや電車のなかで眼鏡の上からハズキ・ルーペを着けるのも手間だし、正直なところ、ちょっと恥ずかしい。そも、持ち歩くことがどこまで想定されて作られているか、わからないしね。
まぁ、ハズキ・ルーペの話題はともかく、プロジェクト達成の意味も含めて「新釈諸国噺」は勿論、『お伽草紙』を飛ばすことなくだれることなく、物語を翫味しつつ読了したい。それはわたくしの、2019年中盤の切なる願い。感受性は鈍ってしまったが、太宰治の作物をもっともっと愉しみたい。その一念からの、願いなのだ。
そこでわたくしは(或る意味で滅法クダラナイ)、一つの実験を試みることにした。即ち、──
他と同じく35ポイントの、改版された新潮文庫版『お伽草紙』を本屋さんで買ってきた。明日から太宰はこちらで読んでみる。果たして浮世草子を苦手とする性向が祟って読み倦ねていた面、けっして否定できぬ「新釈諸国噺」を明日から毎日、わたくしは読んでゆくことができるかどうか。
事情ありまるで読めぬ日もあろうし、1日に1編しか読めぬ日だってあるだろう。それでも、30ポイントの文庫時代とは違い、心理的にも身体的にも負担なく読み進めてゆくことができれば、もうそれを慶事といわずしてなんといおうか? その暁には、諸君喝采せよ峠は乗り越え目の前に広がるは希望に満ちた沃野である、とわたくしは叫ぼう。
できれば今月中に35ポイントの文庫で『お伽草紙』が読み終え、今月下旬か来月へさしかかる頃には、次に読む本として用意してある『二十世紀旗手』を通勤カバンに忍ばせられるといいな。
そんな期待を抱きながら、明日から実験に臨む。結果はかならず、かならずご報告します。
それじゃあ皆さま、おやすみなさい。
【近日公開】
──あれ、読むスピードと物語への没入度、これまでとぜんぜん違くね?◆