第2697日目 〈加藤守雄『わが師 折口信夫』書評。〉 [日々の思い・独り言]

 「もっとも尊敬していたもの、ただ一つ信頼していたものに、裏切られたのだ。一刻もこの場にいることは耐えられない」(P63)
 箱根にある折口信夫の別荘、叢隠居に泊まった晩。とつぜん自分の上に覆い被さってきた師を払いのけて、加藤守雄はそう思わざるを得なかった。怒りは折口からの離別を決意させた。翻意を迫る師の言葉を退け、その後は既に決められていた仕事を淡々とこなしてゆく加藤。不即不離、一触即発という表現がふさわしいか自信はないがそうした日々の果て、遂に加藤は折口の許から出奔した……。
 『わが師 折口信夫』は昭和18年9月に始まり、同28年9月3日に終わる加藤守雄が見た師、折口信夫の生活記録と学問の口伝、そうして偏執と愛の記録である。
 折口と起居を共にした弟子の記録といえば、岡野弘彦『折口信夫の晩年』がすぐに思い浮かび、断片的なところでは藤井春洋や波田郁太郎の挿話を、池田彌三郎やほかの門弟が記録に残している。また戦時中、弟子がみな徴兵されて話し相手に不足していた師の許を足繁く訪れてその談話を記録した戸板康二『折口信夫座談』などもある。
 折口の門弟は師の生活、談話、枝葉末節に至るまでの挿話を書き留めて後世へ残すことを義務と思うかのように、否、折口の亡霊に背中を圧されるようにして積極的に書き残した感さえある。加藤守雄の本書も同じ系譜に属する、とはいささかいいすぎの気もするが殊著者の場合、逆に師の呪縛を断ち切って自由の境地へ至る端緒を摑むための作業であったかもしれない。これはほかならぬ加藤本人に問い質すより術ない、あくまで憶測の域を出ぬものであるけれど……。
 が、じつはこれに対する回答のような発言を、後年になって加藤はしている。長くなるのを承知で引用すれば、──
 「(『わが師 折口信夫』は)できるだけ30歳の自分が感じた感じ方の中で書いたんです。50歳を過ぎた時点ではもう既にそういう問題について解決がついている部分もある。だが、30歳の時点では何か折口信夫の裏側を見たようで、非常なショックを受けた。先生に裏切られたと思い、もう学問なんか絶対にやらないと思ったという、そういう意識の中であの当時見えているものだけに限定して書いたつもりなんです。」(『慶應義塾国文学研究会報』第10号 3回分際されたインタビューの第1回 昭和51年6月 P5)
 また、──
 「(『わが師 折口信夫』を書くときは)自分を投げ出しちゃおうというつもりがあったわけですよ。どんなに人に悪口言われても、そのために交友関係が崩れても、それはそれでしょうがない。とにかく、ぼくの見た限りのものを書こうと思った。もうあの時点で先生が亡くなってから十何年たってますからね……。十二年たってますからね。実は、あの時点のぼくならば理解できることも、ぼくがああいう事件に遭ったときの気持ちにできるだけ戻って書いているわけです。だから、ぼくの見なかったことは一つも書かなかったし、見たことは何でも書こうと、そういうつもりが非常に強過ぎたかもしれないと思うんです。(中略)当時のぼくの覚悟としては、そういう世間の人が必ずしも賛成しない面を、敢えて書こうという気持ちが強かったんです。」(『短歌』昭和55年1月号 「新春対談2 人間、その異類の世界 加藤守雄・辺見じゅん」 P233 角川書店)
 けっしてそれは暴露小説の類ではなかった。けっしてそれは折口の性癖を天下に曝すが目的の書き物ではなかった。では、それはなんだったのか;自分の気持ちに折り合いをつけるため、あのときの折口先生はこうであった、という、いい方は乱暴だが、一種の報告書の性格を多分に含んだ師、折口信夫追慕の小説であったようにわたくしには読めるのだ。
 折口の許を出奔した加藤が、元気な姿の師と顔を合わせたのはわずかに1回きりだ。昭和19年のことか、残してきた荷物を引き取るため上京したときである(P223-4)。
 昭和21年9月、郷里で玩具卸商を経営していた時分、商用かなにかで上京したついでに復員していた池田彌三郎と会った(池田『まれびとの座』「私製・折口信夫年譜」9月6日条 P129 中央公論社)のを別にして、戦後の加藤の身辺が俄に慌ただしくなるのは昭和28年のことだ。
 その夏、加藤は玩具卸商の仕事を4月に止め、夏、上京の決意を固めた。本書に曰く、──
 「さまざまの理由はあったが、一つには、そうして先生に抵抗する必要を感じなくなったからだ。私は先生を、憎みも恐れもしなくなっていた。昔通りの敬意を感じ、先生の偉さを信じることが出来た。こだわりなしに先生に話しかけ、先生もまた狐つきの落ちたような顔で、答えなさるだろうと思えた」(P233)と。
 そのことは池田彌三郎も報告していて(『まれびとの座』8月5日条 P244)、折口にその話をしたところ、既に岡野弘彦も手伝いの矢野花子もいて生活が落ち着いているから……と同居こそ難色を示したようだが、仕事を世話しなくてはならない、という義務は感じていたようである。加藤が思うたように。折口の側も加藤との一件については或る程度の整理が出来ていたのか、と思われる。
 が、運命は残忍である。その年のその夏、箱根で体調を崩した折口は弟子に伴われて急遽下山し帰京、一時小康を得たが9月3日午後1時11分、胃癌により不帰の人となった。加藤は下山した折口を見舞って翌日いったん名古屋へ戻った(8月30日日曜日)が、その3日後の9月3日に訃報を聞いた──電報よりも電話よりも早く、午後3時のラジオ・ニュースで!
 当時、既に加藤のなかでは、前述のインタビュー記事で語っていたような心境の変化と一連の出来事への整理ができており、ゆえそのタイミングで再出発を期した上京を決めたのだろう。その矢先に師の訃報へ接したかれは、しかしその後、慶應義塾大学と國學院大學の折口門下の人々と共同して、国文学と民俗学の世界に大きな貢献を果たすことになる事業へ取り組むこととなった。いうまでもなく、第一次『折口信夫全集』(中央公論社)である。
 この第一次全集の発刊までは角川書店を相手にしたちょっとした紛糾劇があったのだが、これについては改めて短い原稿を書くつもりでいる。
 そうして大小さまざまな書き物を発表しつつ、教壇に立って後進の育成に務めながら加藤は、『わが師 折口信夫』を雑誌掲載するに至るのだが、師没後の加藤の足跡を極めて主だった点のみピックアップして擱筆としたい。
 ○昭和28年7月:角川書店入社。編集長として『短歌』創刊号を編集(特集「釈迢空追悼号」)、直後退社。余談だが、後年同誌の編集長にミステリ作家中井英夫が就いている(3代目?)。
 ○昭和29年2月:中央公論社(第一次)『折口信夫全集』編纂委員となる(旧折口博士記念会)。委員として引き続き『ノート編』、『ノート編・追補』編纂に携わる。
 ○昭和34年4月:池田彌三郎の後任として文化学院大学部講師となる。日本文学コース・コースリーダーの任に就き、日本文学演習・奈良朝および中世、日本近代文学、日文ゼミナール(旧国文ゼミナール)を担当。同63年3月まで在職。
 ○昭和41年6月:國學院大學折口博士記念古代研究所の客員となる。
 ○昭和51年4月:慶應義塾大学大学院の講師となる。同56年3月まで在職。
 ○昭和54年9月:『折口信夫伝──釈迢空の形成』出版(角川書店)。
 ○平成元年11月:論文「異郷の生」発表(『源流』源流の会:発行)
 ○平成元年12月26日:肺癌により永眠。享年76。
 ──斯くして折口信夫に愛された門人、加藤守雄は鬼籍に入った。
 加藤守雄の業績を顧みると、折口信夫の学問の発展と深化を中心テーマに、独自の方向へ進もうとしていた様子が窺える。生涯最後の書き物となった「異郷の生」以後、加藤がどのような学問業績を残してゆくことになったか、想像するとその逝去がたまらなく無念に思えてならない。
 『わが師 折口信夫』は加藤守雄の「とはずがたり」だったのかもしれない。心の闇のなかで片眼を開き、片眼を閉じて端座しつつ、物言わずこちらを見つめる折口信夫の亡霊に対峙して成った「とはわずがたり」が、本書だったのではあるまいか。別のいい方をしよう。それは加藤のなかに潜む怨霊の魂を慰撫する祝詞の如きであった、と。◆

註:『わが師 折口信夫』からの引用はいずれも、昭和42年6月初版発行の文藝春秋単行本に拠る。引用箇所について朝日文庫版との相違は認められない。□

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