第2698日目 〈太宰治は、朗読するにいちばんぴったりな作家だ。〉 [日々の思い・独り言]

 カバンのなかに仕舞いっぱなしになっていた太宰の文庫、『地図』。電車にゆられて帰る途中、ふとあることを思い出して読んでいたら乗り過ごし、おかげで次の駅でなかなか来ない普通電車を待つ羽目になりました。おまけに雨がとんでもなく強い勢いで降ってくるし、もうイヤんなっちゃいます。これもすべて、太宰が面白すぎるのがいけないのです。
 それはさておき、今日は短く済ませる、と決めているのでこんな寄り道はしていられない。進め、進め、前進だ。go with it, go with it, don’t jam in.
 うっかり乗り過ごした原因は、太宰の文章が持つリズムだ。その文章を読んでいると自然、口のなかで誰彼の調子で朗読している。それはたいてい、海外ドラマを吹き替える名優の調子であったり、落語の名人たちの口調であったり、とまぁ下手に口内朗読しているわけですが、そんなことをしていて改めて気附かされるのは、ああやっぱり太宰の作品は朗読してみるに限る、てふいまさらながらの実感。
 県立図書館にいろいろな作家の作品を朗読したCDがあるのですが、そのなかでも太宰治は一際目立つ存在。何社かの朗読CDが蔵されているけれど、重複する作家の率は太宰がいちばん高く、書庫にあるカセットテープ(もしかするとLPも?)まで含めればその数はもっと膨れあがることだろう。そうして<朗読で聞く太宰治>という何枚組だかのセットも所蔵されている。
 こんなこともある。毎晩の睡眠導入剤代わりに、近代作家の朗読を聴く。iPodに入れた、ポッドキャストであれオーディオブックであれ、借りてきたCDを取りこんだものだったり、とソースは様々だが、うちヘビー・ローテーションするものが幾つかある。そのトップ・スリーに太宰治は名を連ねる。そうね、再生回数としては第3位ぐらいかな。
 が、作家としてカウントすればぶっちぎりのトップである。現時点でiPodに入る太宰作品は『走れメロス』と『駈け込み訴え』、『満願』と『桜桃』と『津軽』(抄)の5作。ときどき入れ替えをしているから、iTunesに取りこんである太宰作品は、必然的にもっと多い計算になりますね。さりながらこの5作は殆ど再生リストから外れたことがない、定番中の定番といえる朗読作品。
 前述の<朗読で聞く太宰治>と併せてこれらを聴き耽り、読書している際に口内朗読しているわが身をふと顧みて、こんな壮大な夢想を抱いてしまうのである……どこかの朗読教室に参加して、新潮文庫に収まる作品を全部──文学史に名を刻む有名な作品も、陽の当たらぬ傑作というべき作品も、あまり出来の良くないと思う作品まですべて朗読することを、まぁなんというかライフワークにできたらいいなぁ、なんて夢想を……。いいのだ、夢を、もとい、妄想を声高らかに語るのは自由である。
 太宰治の作品は、声に出して読むのが絶対に良い。そうすることでときどき、腹の底から笑えてくることもしばしばだ。
 ただ問題は(電車を乗り過ごす、という致命的なところはさておき)朗読することが目的になってしまい、上っ面を撫でるような読書になりがちなこと。今夜(昨夜ですか)、戻ってくる電車のなかで読んでいた「哀蚊」が、わたくしの場合はそうだった。
 そのあたりを戒めながら、最終的に物語それ自体と一体化して朗読できたら幸せなのかな、と、思うのであります。◆

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