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第2714日目 〈build up one’s own library.〉 [日々の思い・独り言]

 Twitterに流れてくるフォロワーさんたちの書棚の写真を見るたび、「綺麗に整頓されているなぁ」と羨望の溜め息を吐いてしまいます。と同時に、「もしこの人の全蔵書、或いは殆どがその写真に尽きているなら、綺麗に整頓できるのはいわずもがな。蔵書内容の把握に苦労することも、あまりないんだろうなぁ」とわが書架を顧みて嗟嘆してしまうのであります。
 この部屋は果たして、「衣」と「住」を兼ねた自分の部屋なのか、それとも体を横にする(≠就寝する)ためのベッドを設置した古本屋/紙屑屋なのか。と、斯く深き悩みに陥ってしまうこと度々なのでした。もうちょっと本の数がすくなくて、部屋の扉を開けたらケモノ道、なんて状況を改善することができたなら、人が住むにも本が住むにも快適な部屋となるのだろうが、残念ながら事態が好転する可能性は、著しく低いといわざるを得ない。それが不可能なまでに、蔵書数が収納スペースを圧しているからです。
 ダンボール箱にどんなジャンルの本を仕舞いこんだか、それは箱の外側にペン書きしているから問題ないが、では箱に入っている本がなんなのか、となると、もうお手上げ状態。いちいち開梱してみるより他にない。
 これを改善するにいちばん良い方法は、勿論古書店もしくは新古書店に売却することだが、買取値はともかく、処分する本を選定するための空間がここにはないのだ。まぁ、足の踏み場もないのが現状なのでね。さてさて、困ったことであります。
 本を処分することができぬとなると、次に思い浮かぶのが、書庫として近隣のアパートの空室を借りあげること。本を住まわせるための部屋を、居住目的にウソついて不動産屋さんと契約し、そこへプライオリティのけっして高くない本を移してしまう。読書用と仮眠用を兼ねたソファや書き物用の机と椅子、そうして小さな冷蔵庫と食器棚も、そこには置いて。ああ、パソコン使うことを考えたらネット回線も整えなくてはならぬのか。やることがたくさんあるなぁ。
 が、読書人はゆめ忘れてはならぬ、どんなに注意しても奴らは増殖するのだ、という普遍の真実を。
 アパートの一部屋を借りただけでは追いつかなくなる日が、遅かれ早かれやってくる。そのとき、どのように対処すればよいか。もっと広い部屋を借りる、買う? そこへ一括して移動させる、分散させる? ……嗚呼、もう答えの出ない悩ましき問題であります。
 ただ、ヒントになる対処法を、書痴とも蔵書家ともいえる先達に求めることはできる。たとえば、──
 シャルル・ノディエ「ビブリオマニア」には「一生を彼は本に埋もれて過ごし、本のことしか頭になかった」「善良なテオドール」(P63 生田耕作編訳『愛書狂』 白水社 1980,11)という人物が登場する。この人物にはモデルがあるそうで、生田耕作先生によれば「当時有名な法律家で、気ちがいじみた蒐書家ブラール」(P204)がその人物。かれは見境なしに買いこんだ書物を蔵するために自分が借りていた部屋のある建物を1軒買い取り、それだけではおさまらずその後家屋を何軒も買い足していった、という。当然ながら本人にもどの本がどこにあるか、わかろうはずもなく、借覧を願う人を引きずり廻した挙げ句、「どこかにあるはずなのだが……」と途方に暮れたとか。
 これはいささか(というか相当)行き過ぎな先例なので、もすこし現実的なところを探ってみると……渡部昇一が還暦過ぎに億の単位の額を金融機関から融資させることに成功して建築された(この金融機関の担当者、稟議を通すためにかなり頑張ったんだろうな)、都内某所の自宅かな。
 『渡部昇一 青春の読書』(ワック 2015,5)のカラー写真に全容というか一部というか、驚愕のプライヴェート・ライブラリーが紹介されていますが、これこそが読書家というより蔵書家の夢見る書斎/書庫の理想型、窮極なのではないのでしょうか。そこに収める程の蔵書がない、なんて台詞は反駁にもならぬ、ただのナンセンスだ。それだけのスペースを確保し、自分の蔵書のすべてが一箇所に集まり、すべての本の背表紙がこちら側を向き、必要な際に労せずアクセスできるようになることの有用性を、渡部昇一の書斎/書庫が教えてくれているのであります。
 かつて渡部氏は、図書館に住みこんだ経験から自分の図書館を持つことの必然性を、肌で感じ取った。私設図書館の所有を、若き頃に誓った。それを忘れることなく持ち続け、遂に還暦過ぎという、まだまだこれからだが先が見えてきた頃でもある年齢で実現した。ただ、始めに誓った頃と実現した頃とで、蔵書数が桁違いに多くなっていただけの違い。
 とはいえ、渡部氏のようなプライヴェート・ライブラリー(兼自宅)の所有は、人を選ぶお話であります。「自分にはそこまでの規模は必要ない」というのではなく、もっと現実的なところ──土地の所有と総工費、勤務年数と年収と頭金、そうして金融機関担当者との信頼関係に帰り着くお話。むろん、建設会社の選択も大事ですが。
 これとて非現実的な部類に属するケースではありますけれど、こうした先達もあるのだ、と心の片隅に留めて「いつかこんな風なライブラリーを持てたらいいなぁ」と願望し続けるのは、けっして悪いことではないと思うのです。マーフィー理論ではありませんが、おりふし心のなかで唱える祈りや願いは、それを失くしたり捨てたりしない限り、そのときの自分にふさわしい形で実現するのですから。そういえばマーフィー理論を日本に紹介したのは、この渡部昇一(大島淳一)でしたね。
 ブラールと渡部昇一は、たしかに非現実的な部類に属するケースかもしれません。が、イギリスにはグラッドストン式とでもいうべき蔵書収納法が存在する。グラッドストンは19世紀中期から後半、ヴィクトリア朝の時代に自由党党首を務め、4度に渡って首相を経験した人物。アンドレ・モロワにグラッドストン伝がある。政敵ディズレイリーとの論争や確執は、英文学のテキストでさんざん読まされた苦い記憶が、わたくしにはあるが、いまはさておき。
 さて、そのグラッドストンに『本とその収納』なるエッセイがあり、小冊子になっているという。アン・ファディマン『本の楽しみ、書棚の悩み』(草思社 2004,7)で初めて教えられたのだが、それによるとグラッドストンの提唱する書物収納法とは2つある。1つは滑車附き書棚の製作/採用、これは現在、形を変えて図書館や企業の資料庫等でおなじみのシステムですね。そうしてもう1つは、<棚一面に書棚を作り付け、然るべき間隔で書棚の一部を直角に、部屋の内側へ突き出すような形にする。突き出た部分の突端も書棚として使う。そうすれば、単に壁に書棚を作り付けただけよりも多くの書物を収納できる>という方法。
 前者は勿論だけれど、後者は最低12畳程度の広さがないと、より多くの書物を収納できるぐらいにはなるまい。それ以下の畳数だとおそらく部屋を、空間的にも精神的にも圧迫するだけでしょう。けっしてオススメはしない。が、逆にいえば或る程度の広さを確保できる自己所有物件であるならば、実現は十分に可能である、ということでもあります。
 ……と、3人の例を挙げてみましたが、自分の蔵書をすべて収めて背表紙が見えるようにできるのであれば、それがいちばん良いのですよね。ただ、行き着く先の理想をどこに持つか、で出発点は変わってきます。グラッドストンの方法も悪くはないが、やはり或る程度の蔵書を持つ身ならば渡部昇一のプライヴェート・ライブラリーに憧憬を抱くのは当然至極。
 理想は失うべきではない。とはいえ、──
 そこまでの資力も空間も持たない身には、8畳か10畳程度の部屋の四囲を書棚で埋め尽くし、かつ部屋の中央にちょっと低めの書架を背中合わせに置く(耐震処置をした上で)のが、いちばん現実的なのだ。最も使いやすい書庫を思い描くと、そんな光景に帰り着きます。そんなものだ。そこにパソコンが置けて書き物ができる抽斗附きの、或る程度のサイズの天板を持った机と、ゲーミング・チェアのように長時間坐っていても負担のない椅子が備わっていれば、なにもいうことはありません。そんな書斎/書庫を備えた一戸建てが持てるように、あと10年ちょっと会社勤めを致しましょう(勤続年数が長い程、金融機関からの信頼は篤く、担当者次第で実際以上の融資額を確保できる場合がありますからね)。
 さまざまお喋りしてきたが、それでも当然わが部屋の紙屑屋然とした様子に変わることはないゆえ、やはり蔵書の処分は実行しなくてはならず、まずはそのための空間をむりやりにでも作り出さなくてならぬのですが。
 最後に、10代の頃に読んで心に響き、時間の経過とともに輝きと重みを増してきた言葉を。曰く、──
 “to build up one’s own library.”(自分自身のライブラリーを作りあげる)◆