第2722日目 〈遠のいてゆくイスカリオテのユダ。〉 [日々の思い・独り言]

 トイレへ行きたくなって目を覚ました途端、耳許で男の声が囁いたのです。声質の低い、すべての感情を押し殺したような声でした。それは闇の帳の降りた部屋の空気を一瞬震わせて、そのまま闇のなかへ消えていったのです。その声の曰く、「イスカリオテのユダ」と。
 イスカリオテのユダ──師であるナザレのイエスをファリサイ派へ銀30枚で売り渡し、ゴルゴダの丘に於ける磔刑への扉を開いた人。そうして福音が世界へ広まってゆくための決定的事態を実現させた、キリスト教の極悪人にして(見ようによっては)忘れるベからざる恩人の一。
 かれの生涯と言動は後世の文芸諸家にインスピレーションを与えた。われら日本人の知るなかでとりわけ有名なのは、太宰治「駈け込み訴え」でありましょう。冒頭の、耳許に囁く男の声。それはこの短編を朗読した佐藤慶の声なのでありました。新潮社から出ていた「走れメロス」とカップリングされた朗読CDの1つを、iPodに落としたものです。
 このユダという男、10年程前の『ユダによる福音書』発見と紹介以来、俄にこれまでとは別の角度からスポットライトがあてられた、おそらく使徒のなかでいちばん人物像が揺らいだ人物でありましょう。とはいえ、現在はその騒動も鎮静化している様子。イスカリオテのユダについては従前通り、裏切り者のレッテルが貼り直されたようであります。
 ただ、福音書のユダの描かれ方を追ってゆくと、裏切りに至る過程とイエス処刑が決まったあとのかれの行動が丹念に描かれていることもあり、ユダに感情移入できる点なきにしもあらずなのですね。むろん、これは非キリスト者ゆえの考えかもしれませんが、ユダはユダなりにイエスを裏切る(売り飛ばす)理由あっての行為である、という考えは微塵も揺らぎません。
 とはいえ、正直なところを告白すれば、ユダについて書かれた文献を検めるに従って、わたくしはどんどん、この使徒ユダという人物がわからなくなってゆく。それまではすぐ目の前にいた(と思えた)かれが、どんどん霧の彼方へ遠のいて、影となってゆらめくようになる。
 顧みるにその原因は、あの『ユダの福音書』かもしれない。イエスの命を承けてユダは師を売り渡したのだ、イエスの福音や宣教をいちばん理解していたのはなにを隠そうこのユダであった、なにとなればユダこそイエスがいちばん愛した弟子であり、自分がしようとしていること(磔刑と復活、そうして福音を世界へ広める)を理解している人物である、という、福音書のなかのユダからは想像するも難しい、仰天の人物像が、そこでは提示されたのだから。
 後世の学者たちが自著で提出する<イスカリオテのユダ>像に接すると、小首を傾げてしまうのだ。銀30枚という奴隷1人分の代金に過ぎぬ額で師イエスを売り渡した、軽薄かつ血も涙もない奸計巡らす裏切り者、という見解はおそらく正しい。が、もっと根本的な部分で「それは違うだろう」と囁く声があるのです。そこで描かれるユダには、肉体もなければ血も通っていないし、感情は専ら暗黒面に引っ張られている。
 共観福音書と「ヨハネによる福音書」に書かれたユダ像は、書物によって相違はあれなにかしらの出来事ゆえにイエスへ怨みつらみを抱いて銀30枚で売り渡すけれども、それでいて師への敬愛が微塵に消えたわけでなく、己のしでかした行為を嘆く側面も持つ。こうした見方を、わたくしは福音書に描かれたユダについての描写から、するのです。
 イスカリオテのユダは12使徒のなかで、とても感情豊かで承認欲求の強い人物だった──感情に流されがちであるが、ちゃんと自分のしでかしたことについて気附き、反省することのできた人物……というのが、わたくしの持つ<イスカリオテのユダ>像であります。
 とはいえ、これは勿論最終的な結論ではない。今後も読書と検討を重ねて考えてゆくべき話題だ、と思うております。
 いやぁ、もっと勉強せねばなりませんな。◆

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