第2727日目 〈モンゴメリ著/松本侑子訳『アンの青春』を読みました。 ※感想文ではありません。〉 [日々の思い・独り言]

 現在、文春文庫から松本侑子訳モンゴメリーの《アン・ブックス》が刊行されている。かつて集英社文庫で第3巻まで出てその後中断されていたシリーズだが、今回の文春文庫版では以前は未完であった作品も含めて全作が翻訳・刊行される由。
 ご多分にもれず、わたくしのアン初体験は《世界名作劇場》だったのだが、じつを申せば村岡花子の新潮文庫版を全部読んだことが、ない。そっと白状すれば既読のものは第3作、『アンの愛情』までで、それ以後の巻とは縁なく過ごしてきた。それでいて、『アンの想い出の日々』上下巻は早々に購入して読んでいるのだから、なにがなにやら自分でもよくわかりません。たぶんこの当時は、読む気になっていたのでしょうかね。
 えーと、話をすこし戻して松本訳《アン・ブックス》の話。今月初旬に第2巻『アンの青春』が刊行されました。第1巻に続けて読んでいたところ、仰天するような訳文に遭遇した。曰く、「くだらん黄表紙本なんぞ、すわりこんで読んでる暇があったら」(P16)と。畑を荒らされた新しい隣人、ハリソン氏がアンに怒鳴る場面である。原文では“than in sitting round reading yellow-covered novels,”という(※1)。
 このときアンが読んでいたのは「黄ばんだヴァージルの詩集」だったのだが(※2)、出版されてから相応の年月が経過してから、おそらく小口やページが黄ばんでいたのであろう詩集をさして、「くだらん黄表紙本」と曰ったところで仰天し、そうして吹き出した。これは鴻巣友季子が『嵐が丘』でキャサリンに「嘘!」と叫ばせたのと同じぐらいに画期的な訳語であるまいか。本気でそう思ったのである。
 それをTwitterで呟いたところ、なんと訳者ご本人からリプライをいただき、原文のご指摘を受けた。すぐにお返事するところを雑事にかまけていてすっかり忘れていたのが、じつは本稿執筆の直接の原因である。
 その後もつらつら考えていたのだが、とか<黄色>という言葉は、洋の東西別なくどちらかというとネガティヴな方向を連想させるのかな。もともと英語のには差別的侮蔑的な意味合いがあるし、「臆病」とか「嫉妬深い」とかの意味もありますものね。そういえばイスカリオテのユダは絵画に描かれる際、黄色の服を纏うていることが多いのだけれど、もしかすると英語のがネガティヴな意味を含む源は、このユダにあるのかな、と考えてしまう。  では、”yellow-covered novels”はこれまでどう訳されてきたか。永遠の定番ともいうべき村岡花子訳では「黄表紙の三文本」と訳し、村岡花子とほぼ同時代にこれを訳した中村佐喜子(※3)は、ここを「くだらん小説」とした(角川文庫)。アニメの底本にもなった神山妙子の訳では「黄表紙の小説本」である(河合祥一郎他訳も同じ〔角川つばさ文庫〕)。「黄表紙」という訳語はたいていの翻訳者に共通するが、原書に”yellow-covered”とあるから、逐語訳すればそれも当然か。  が、江戸文芸の黄表紙本を意識していたか、定かではない。松本訳の場合、が「くだらない」という意味を持つことから捻りを加え、先行訳を踏まえたかのように見えてその実、一歩踏みこんで江戸文芸の黄表紙本を連想させるこの訳語を生み出したのだろう。  ──重箱の隅を突くような話に終始したが、集英社版での中断を残念に思うていた1人として、今回の文春文庫での再出発と全巻の翻訳はたいへんうれしく思うている。途中刊行ペースが落ちることは予想されるが、つつがなき完結を祈りたい。◆ ※1 原書未所有のため、[The Project Gutenberg EBook of Anne Of Avonlea, by Lucy Maud Montgomery]より当該部分を引用した。 ※2 前70(?)〜前19年にローマで活躍したラテン語詩人ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)。これを英語読みするとヴァージルとなる。現在の北イタリアにあたるガリア・キサルピナはアンデス生まれ。 ※3 わたくしには《アン・ブックス》よりもむしろ、エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(旺文社文庫)の翻訳や『ブロンテ物語』(三月書房)の著者という方がずっと親しみがある。□

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