第2748日目 〈太宰治「彼は昔の彼ならず」を読みました。──引用を主としたる感想。〉 [日々の思い・独り言]

 わたくしはこの語り手を、太宰文学の数ある語り手、登場人物のうちで、いちばん救い難く、いちばんのうつけ者、お目出度いまでに左巻き、そうして超弩級の馬鹿者であると思う。「彼は昔の彼ならず」の語り手のことだ。これは『晩年』に収まる。
 東京郊外に親譲りの遺産で暮らす無職の男が語り手。自宅とは別に譲り受けた家を貸して、その家賃でのんべんだらりと毎日を暮らす。そこへ木下青扇という「自由天才流書道教授」を名乗る男が店子として入るが、敷金は勿論一向に家賃さえ支払う様子がない。痺れを切らした語り手だが、生来そんなことは嫌いなのだ、と嘯き嘯き、けっきょく家賃を一銭も払ってもらえないまま、今日も離れた場所から青扇が散歩に出かける光景を眺めている。──というが粗筋。
 さて、感想。容赦なく行く。こちらはアパートのオーナーだ。不動産投資をしている。管理会社や地場の不動産屋さんとはちゃんと連絡を取り合い、家賃収支を点検し、すは鎌倉となれば必要な行動を起こす。ゆえ、わたくしの感想は専ら語り手に寄ることを、ご理解いただきたい。では、──
 まずこの輩、そもそも道楽とはいえ店子に腰が引けてしまうようならば、大家さんなんてやらねばいいのである。家賃で生活を立てているのなら、家賃の督促にひるんではならぬ。厭な思いを抱くのは、すべての大家、オーナーなら当然だ。こちとら慈善事業をしているのではない。店子との交渉を面倒がり、賃貸借書類の作成すら「いやなのだ」と洩らすなら、きみよ、さっさと廃業して、働け。賃貸に出している家も、処分してしまうことだ。
 「家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ取りかわさず、敷金のことも勿論そのままになっていた。しかし僕は、ほかの家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、青扇も言ったように貯金のようなものであるから、それは、まあ、どうでもよかった。けれども屋賃をいれてくれないのには、弱ったのである。僕はそれでも五月までは知らぬふりをしてすごしてやった。それは僕の無頓着と寛大から来ているという工合いに説明したいところであるが、ほんとうを言えば、僕には青扇がこわかったのである。」(新潮文庫 P28-281)
 ……なんなんだ、このアホンダラは。果たすべき義務を果たそうとせぬ者が、なにをいうておるか。一見すると<武士は食わねど高楊枝>な生活であるが、ただの不精者でしかない。なにが、「僕の無頓着と寛大」だ、それによって青扇が暮らせているか。呆れてしまう。
 「証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいや」だと? もうこの時点で家主てふ生業の廃業勧告をしたいぐらいだ。
 「敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらい」? そうだな、あんたのことだからあっという間に損失を被って、債鬼に追われる身分になるであろうな。が、それも自業自得じゃ。呵々。
 「みちみち僕は思案した。あの屋賃を取りたてないからといって、べつに僕にとって生活に窮するというわけではない。たかだか小使銭の不自由くらいのものである。これはひとつ、あのめぐまれない老いた青年のために僕のその不自由をしのんでやろう。」(新潮文庫 P291)
 ……聖人君子か、どれだけの富貴者か。お金にまるで困らぬご身分の者の台詞だ、「不自由をしのんでやろう」とは。もうかれはこのお高い志持ったまま、路頭に迷われるが宜しいのでは。路上生活者となってもさぞ君子の如き心で生を全うされることであろう。暴君ディオニスのようにご乱心、他人を信じること出来ぬ御仁になることはあるまい。精々お達者で。
 「『あなたも子供ではないのだから、莫迦なことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いてあるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくをかけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢の精神か、それとも乞食の根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え。』言い捨てて立ちあがった。」(新潮文庫 P302)
 ……やるではないか。見直したよ。むろん、言葉ばかりで家賃の取り立てはできぬのだが、こうして啖呵を切れるだけ劇的なる進歩だ。奇跡的出来事である。が、それだけの話だ。
 「僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをしているとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもない一層息ぐるしい結果にいたったようである。」(新潮文庫 P310)
 ……いや、だからそれを自業自得というんでしょ。怠惰と鈍重と無能が招いた結果じゃ。要するにこの男、語り手の此奴、ポンコツなのである。
 青扇の「働けたらねえ」「金があればねえ」という言葉に同情し、ときにしなびた姿に同情し、けっきょく家賃を支払ってもらうことのできないまま、かというて青扇が出てゆかず居坐ったまま暮らすのを指くわえて眺めるしかできない語り手を、侮蔑と嘲笑以外の目で眺めることが、わたくしには出来ない。これは唯のロクデナシである。語り手よ、いまの時代に生まれていなくてよかったな。そう本心から思うのである。これは罵倒でも揶揄でもなんでもない。衷心から出た正直な感想だ。
 「彼は昔の彼ならず」にちっとも滑稽とか戯画とかを感じ取ることが出来ない。新潮文庫に解説を寄せる奥野健男も相当お目出度いな、この短編に関しては。
 いろいろ書き散らした。これまで何度も「彼は昔の彼ならず」を読み、そのたび他作品同様の感想を、と心掛けるのだが、都度失敗する。おそらくこの世に存在する(した)なかでわたくし程、本作に感想を述べて平板浅薄な者があろうか? さりながらどうしても……いや、やめておこう。◆

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