第2774日目 〈渡部昇一の著書からもう1人;岩下壮一『カトリックの信仰』他を読んだっけ。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日のエッセイをお披露目した後、「そうだ、渡部昇一の著書でもう1人、親しむようになった著述家がいたな」と思い出した。カトリックの司祭で神山複生病院長を務めた岩下壮一である。
 いちばん最初に岩下の名前を知ったのは、渡部のなんという著書であったか、もう忘れてしまった。いまはもうなくない駅ビルの本屋で買った、『楽しい読書生活』(ビジネス社 2007/9)だったと記憶するのだが……。
 無人島に持ってゆくなら、という読書家なら一度は受ける(とされている)永遠の質問ヘの回答で挙がったのが、岩下壮一『カトリックの信仰』だった。
 ちょうど聖書を読み始めていた時分だったこともあり、読みたくて捜したけれど講談社学術文庫版は既に絶版。ネットの古書店でたまに見附けても高値が付けられ、神保町や高田馬場、神奈川県内の古書店を廻っても事情はさして変わらず。そも実物を見たのは、唯の1度だけだ。
 2015年7月にちくま学芸文庫から復刊された際、さっそく1本を購い求めたところ、部分部分で「なんとなくわかるな」と思うことあれど、歯の立たぬところの方が圧倒的に多かった(とはいえ、その4ヶ月前に岩波文庫から出た『信仰の遺産』(2015/3)よりは、わかりやすい本だった)。「キリスト教の真理とは」、「信仰の本質とは」、「神学とは」といった点を懇切丁寧に、平明な文章と砕けた語り口で、未熟者にもわかるよう説いてくれている点が背中を押して、つい幾度も手に取って読んだのである。
 正直に告白すれば、わたくしは生涯を費やして神父の著書を読んでも、一知半解の域を超えることはないのであるまいか、と嘆息している。『カトリックの信仰』はカテキズム、公教要理の概説書として未だこれを凌駕する物なし、という程の立場を与えられた本だが、どうにもこの、専ら問答形式で行われているキリスト教教理を解説したカテキズムそれ自体に然程馴染んでいないとなれば、それも宜なるかな。
 実は聖書を読んでいた頃、次に読む、或いはこれから読みたく思う書物として、いろいろ考えた。そのなかにあったのが、『小教理問答』(ルター著)と『ハイデルベルク信仰問答』。これはカテキズム、公教要理のテキストである。知らぬ間にカテキズムへ近附こうとしていたことにいまさらながら吃驚だけれど、結果としてこの望みは果たされていない。
 まだ視力がしっかりしているうちに、岩下神父の著書にしろ公教要理のテキストにしろ、読んでしまいたい、と願っている。
 蛇足ながら、『信仰の遺産』には表題作の他、随筆が数編併録されているがその内の、「十字架へ向かって」と「キリストに倣いて」、「G・K・C管見」は無類に面白い。はじめて神父の文章へ接するのに最適ではないか。いきなり本丸、二の丸へ挑んで挫折するぐらいなら、これらの随筆で馴染んでおくのが宜しいか、と……。
 最後に。岩下壮一の伝記として小坂井澄『人間の分際』(聖母文庫 1996/7)がある他、神山複生病院長時代の岩下を描いた重兼芳子『闇をてらす足おと』(春秋社 1986/11)も出版されている。他にも文献等あるやも知れぬが、それがし未見なり。◆

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