第2778日目 〈その言葉を探しにゆけっ!!〉 [日々の思い・独り言]

 ふと記憶の底から甦ってきた言葉を追って、時間を過ごすことが間々ある。今日もそうだった。なにかの拍子に、「そういえば紀田順一郎がなにかの本で、仕事帰りに疲れて帰宅して、思うように本が読めないとき窓の外へ向かって大声で、『トリストラム・シャンディー!』とか読んでいる本のタイトルを叫ぶとふしぎと集中できた、って書いていたなぁ……」と思い出したのだ。
 さあ、それはいまからほんの1時間半程前のことである。
 架蔵する紀田の著書は多い。渡部昇一と荒俣宏同様、学生時代からわずかの中断あるとはいえ、ずっと読み続けてきたのだからそれも当然だが、記憶の底から甦ったそのエピソードは20代前半に読んでいるのはたしかゆえ、今世紀になって出版された、或いは購入した本はすべて省いてよいことになる。加えて、内容が内容なので読書論以外の著書に可能性を見出す必要はない。となれば、自ずと候補に挙がる著書は限られてきて──。
 手始めに、いちばん近くにあった『黄金時代の読書法』(蝸牛社 1980/6)を取って、ぱらぱらページを繰っていった。しかし、ここにはなかった。たしか自伝的パートの一節であった、と思うから、そうした部分を含まない本書にあまり関わり合うこともあるまい。
 次に、『書斎生活術』(双葉社 1984/5)を開いてみた。日比谷図書館で借りて一読以来、どうしても手許に置きたくなって方々の古書店を探し歩いて、ようやく御茶ノ水駅近くの、いまは代替わりした古本屋の軒先で購入した、一際愛着ある本だ。おまけに本書には書斎遍歴を中心とした、自伝の側面を持つ文章が載る。これは期待できる。おそらくこれにて一件落着となろう……と思うたが、甘かった! 見附からなかったのだ。
 そんな馬鹿な、と己を責めても、ないものはない。ない袖は振れない、という道理。その代わり、しばし読み耽ってしまい、上述の捜索時間1時間半の内、約40分はじっくり本書を読み耽っていたね。はたと気が付いて作業に戻ったときには、もう探すの止めようかな、なんて考えが脳裏を過ぎったことは内緒だ。
 その次に手にした『現代人の読書』(三一書房 1964/6)は、当初から期待の薄い本であった。記憶に残るその一節、それが載るページの版面と、本書の版面には著しい相違があるからだ。活字は斯くまで細かくはなく、ページの余白もこれ程狭くはなかった──序でにいえば、本書はがちがちの読書論であり、若き日の著者の情熱が漲った1冊であるけれど、逆にいえば件のエピソードの入りこむ余地はない1冊でもあるからだ。為、目次へ目を通し、ざっとページをめくっただけで早々に却下。
 実は4冊目に手にした『知性派の読書学』(柏書房 1977/7)も、事情はさして変わらない。個人的には渡部昇一との対談が載る貴重な1冊であり、その時点に於ける著者の読書論の到達点であり、また前述の『黄金時代の読書法』や『書斎生活術』、或いは『古書街を歩く』などの著作の萌芽となる部分を含んだ見逃すベからざる本なのだが、今回は無用の1冊と相成った。
 さて。前段にて幾冊かの書名を挙げたのには理由がある。ちゃちな伏線である。では、解決編へ、読者諸兄よ、一緒に進もう。進んでくれ。
 こんなはずはない。紀田の著書は1冊たりとも処分していないし、件のエピソードは文庫ではなく単行本で読んでいる。ならば、この1時間超の間に手にした本のどこかで、それは発見されるのを待っているはずなのだ。
 ああ、もうチクショウめ。口のなかでそう呟きつつ、もう一度、『黄金時代の読書法』を手にしてみる。いま一度、きちんと検めてゆこう、と考えたのだ。見落としている可能性はじゅうぶんあるのだ。そうして、探し物は一度で見附からない、と(わたくしのなかでは)相場が決まっている……。2周目で見附けられなかったら、仕方がない、範囲を広げて20代後半以後に買った単行本や文庫まで点検してみよう。この時点で実は、定時のブログ更新は諦めていたんだよね。
 そんなこんなで『黄金時代の読書法』を開く。すると、目の前に驚嘆すべき光景が広がった。そこにあったのは、かつて著者が夜遅く仕事から帰宅してからの読書は辛かった、気分転換を図ったりもしたが、ふと思いついて本のタイトルを窓の外へ向けて叫んだら意外と効果があることに気が付いた、という回想。──おお、なんてこったい!
 つまりは開いたページに、探していたエピソードが書かれてあったのだ。まるでそのページに組まれた活字が、「だれかをおさがしかな?」とにんまり笑っているかに見えたねぇ。え、それってチェシャ猫のように? そう、まさにそんな感じだ。
 いろいろ迷走もあったけれど、求める文章に出会い、新たに確認できたので、良しとしよう。こう書いておけば、心配ない、綺麗に締められるはずだ。
 こうして捜索は終わった。事の序でに前のページを繰ってみたら、満員電車内での文庫の持ち方について触れた文章があったので、それについて倩思うことを綴って本稿擱筆とする。
 紀田はこう説明する;開いた文庫の前を小指と人差し指で押さえ、後ろを中指と薬指で支える。ページをめくるときは、遊んでいる親指で行う。これなむ<片手運転>と称す云々。
 試しに手近の文庫を持ってきて、試してみた。無理だった。持つことはできても、めくれない。至難の技である。めくろうとしても人差し指が邪魔してできず、かというて人差し指を動かそうとしても頑として動いてくれようとせず──。紀田順一郎の運指はどうなっているんだ。アアボクハブキッチョナノデショウカ、オシエテクダサイ、ミナノシュウ(ことりちゃん風に。内田彩の声で、勿論当然)
 わたくしの場合は文庫の前を小指と親指で押さえ、なかの3本で支える。めくるときは親指で行う。高校時代からこの方半世紀以上続けてきた方法である。けっきょく自己流がいちばんなのだ。◆

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