第2784日目 〈太宰治『もの思う葦』の刊行は、奥野健男最大の功績だと思う。〉 [日々の思い・独り言]

 太宰治は『二十世紀旗手』に続いて、『もの思う葦』を読んでいます。新潮文庫。
 先月26日の宵刻、帰宅途次の上野東京ラインの車中でページを開いたまではよかったけれど、肉体的精神的疲労(専ら後者)により、がんばっても2ページちょっとしか進められず、そのままカバンの肥やしになっていたところを一昨日から読書再開。山村修いうところの<チューニング>が済んで作品への擦り寄りができてしまうと、一瀉千里とまでは行かないけれど、スキマ時間を使ってすこぶる調子よく読み進めております。
 本書は太宰の書いたアフォリズム集である表題作を巻頭に、最晩年の『如是我聞』を掉尾に置いた。全5部編成の第1部は『もの思う葦』と『碧眼托鉢』、第2部は文学や人生にまつわる文章を、第3部は身辺雑記というてよいか自己と郷里について語った文章を、第4部は作家論を、第5部は前述の通り『如是我聞』を、それぞれ収めた、奥野健男選・編の1冊だ。
 今日ようやく第2部に差し掛かったところゆえ感想などまだ出せないが、奥野曰く「小説家である矜恃にかけて随筆を書くことをいさぎよしとしなかった」(P311)太宰のその種の文章を文庫で読めるだけで貴重なのに加え、それがことごとく新潮文庫所収の小説鑑賞にフィードバックさせられる内容ばかりとあれば、解説子の思惑はおそらくそのあたりにあったのではないか。
 『晩年』で「『晩年』に就いて」に触れたり、川端康成宛檄文を取り挙げたり、と、奥野は太宰文学解説のため各巻にて折に触れて小説以外の文章へ触れてきた。解説の筆を進めながら奥野はゆっくりと、太宰随想を集成した一巻の編纂を企画、その実現めざして新潮文庫編集部へ働きかけていたと想像すると、否、想像しないまでも、そうして事実が異なっていたとしても、貴重な太宰随想をまとめてくれたことに感謝である。実現の自負はどうやら本人にもあったらしく、同書解説にて刊行の意義を自ら高らかに宣べているあたり、新潮文庫版作品集に於ける奥野最大の功績というてよいだろう。
 太宰のエッセイ、そういえば寡聞にしてあるを殆ど聞かないなぁ、となかば訝しく思うていた矢先というてよいタイミングで本書を手にすることになったのは、神慮が働いたがためとわたくしは都合良く解釈したい。むろん、太宰には随想なのか小説なのか、どちらとも杳として判別できぬ作品が幾つもある。それゆえにこそ『もの思う葦』があることは貴重であり、太宰ファンには「福音」というは過ぎた表現かもしれないが、それに近しい喜ばしき出来事なのだ。
 ──たぶん再来週には読了できるはず。ということは、きちんとした感想文はそれから旬日経ぬうちにここへお披露目できるはず。その日が来ることを信じたい。◆

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