第2788日目 〈戦後になって書かれた荷風小説について。〉 [日々の思い・独り言]

 ちかごろよく思うのだけれど、戦後になって書かれた永井荷風の小説に、ぱっ、としないものを感じるのはどうしてなのだろう。Twitterでもいちどだけ、そんなことを呟いたことがある。学校の図書室で荷風全集を借りだしていた時期、戦後になって発表された作物を収めた巻へ至ったとき、なにやらとまどいを覚えたのがそもそもの始まりだ。
 今日までの間に新しい荷風全集が刊行されて、こちらは公立図書館で、興味のある巻だけ借りて読んだ。並行して同時代の作家たちが荷風について語った文章を行き当たりばったりに読むようになり、そのなかでいちばん衝撃を受けたのはご多分に洩れず、石川淳の「敗荷落日」である。
 「最近の荷風はダメだ。読む価値もない。そも人品も怪しくなった」と真っ向から切って捨てたものは、それまで読んだことがなかった。その語調の激しさは読んでいるこちらが震えてしまう程だけれど、一方で意を強うしたところもある──戦後作品の粗悪ぶりを感じていたのは、よかった、わたくし独りではなかった、と。
 著作年譜を点検すると、荷風の小説は昭和12/1937年春発表の『濹東綺譚』を頂点にして、その後は偏奇館焼失の昭和20/1945年3月10日以後ゆっくりと、精彩を欠き、生命力が衰えてゆくようだ。蔵書みな灰燼に帰し、知的生産を支える屋台骨が崩れ去ると荷風散人はかつての詩魂失い、それは没するまで復すことがなかった様子である。
 それまでの荷風の小説は江戸の情緒をたっぷり身に纏うた、徳川時代から連綿と流れて継がれてきた人情話を、その優れたる、並外れたというてよいかもしれぬ文章力で以て芸術の域へまで高めたところに特徴の一があった。荷風の知的生産の屋台骨を崩落せしめたのは、なにも空襲により住処をなくし蔵書をなくしたばかりではない、戦災が荷風文学の温床となる江戸の情緒と近代の<粋>を根こそぎ奪っていったのだった。
 戦中に書かれた小説には、まだ『すみだ川』や『雨蕭々』に、或いは『濹東綺譚』に書かれた良き時代の空気が息づいていた。告発小説など種々のアプローチを許す「来訪者」にしても然り。が、戦後に書かれた小説は、どうだろう。
 疎開と移住を繰り返してようやく市川に落ち着くまでも、そのあとも、書かれる小説には最早かつての荷風文学の面影なく、残滓を嗅ぎ取ることはできてもその様は専ら風俗記録に等しい。
 翻って日記『断腸亭日乗』の昭和20年から昭和34/1959年4月29日(逝去前日)までを開くと、年を追うにつれて記述が非常に簡素になってゆき、ちょっと長めの記述があったとしても10日に1回程度の割合でしかなく、さすがに戦前戦中のような密度の濃さは期待できない。
 但し、それはあくまで『断腸亭日乗』に於いてである。かつて荷風が日記にあれこれ書き留めた仄聞観察の類は、たしかに戦後の日記からはだんだんと影を潜めていった(最後には天気と来客、出掛けた先の記録に留まった)。が、見方を変えて、むかしは日記に記録していた風俗や生活者の営みなどを、今度は小説に仕立てるようになった、と、そう考えれば戦後の小説の変容ぶりも(すくなくともわたくしは)納得なのである。
 戦後に書かれた小説の好い点は、敗戦後の焼跡の混乱や、公記録に残りようもない市井の事柄(出来事)、風俗習慣などがそこに留め置かれていることだ。まさしく風俗記録、社会記録である。
 たしかに作品の根底を流れるものに、戦前も戦後も変わりはないかもしれない。ただ、荷風の目にクローズアップされる部分が以前とは違うようになったのだ。とはいえ、書かれる小説のクオリティがさがる一方で終ぞ復活することのなかったことは、けっして否めぬ事実といえるだろう。
 斯様に申しあげてきて痛切に思う;わたくしはまだまだじっくりと、腰を据えて、まだまだ戦後作品と取り組む必要がある。まず自分のなかから、『四畳半襖の下張』−猪場毅/平井呈一−「来訪者」に至るラインを、こびり付いた固定視座をいったん棄てる必要があろう。それは難しいかもしれないが、いちどはそのフィルターを外さないと。
 幸いと第一次荷風全集全29巻を、第28巻までは初刷ながら比較的良好な状態でこのたび入手する機会に恵まれた(月報揃い)。次は1990年代に刊行されて21世紀になって第二刷が出、その際補遺2が付された新版全集を狙うが、こちらは初刷と第二刷、両方を購い求めることになりそう。月報の内容が異なるのだ。けっして荷風研究者ではないのに、なんだろう、この、憑依されたかのような行動は。
 しかしながら、最低必要なテキストは手許に届いた。新版全集の話はともかく、これからの冬の夜長は辞書を引き引き怪奇小説を読むのではなく、ハズキルーペを掛けて荷風全集を読み耽ろう。そうすれば自分のなかで荷風にまつわる別の件で課題としていることについて、気附けるところもあるだろう。◆

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