第2789日目 〈ようやく<岩波文庫の100冊>お披露目のメド、立つ。〉 [日々の思い・独り言]

 暇な時間を使って気がついた端から、例の<岩波文庫の100冊>のリストを更新しています。
 おかげさまでリストの書目は順調に増えてゆき、いまは200と3冊に膨れあがりました。まだ記憶の底から浮かびあがってすぐに消えてゆく書目が多く、それらをぶじにリストへ加えることができたとしても、いずれにせよ100冊まで絞りこむ作業がたいへんになるのは同じこと。
 それにしても、部屋のあちこちから岩波文庫の出てくること、出てくること。どうしてこんなにあるのか、正直なところ、小首を傾げてしまいます。むろん、重複するものもあり、なんだってこうまで同じものを買いこんでいたのだろう、と不思議になります。
 勅撰和歌集、就中八代集はよいのです。ダブリで4セット、更に『古今集』と『後撰集』、『新古今集』が数冊ずつあるのは、然るべき理由が当時はあったからこその現象。『芭蕉紀行文集』と『おくのほそ道』もまぁ、良しとしましょう。たしかにこの2冊はこれまでの人生の一時期、幾度となく読み返して深入りし、あげく買い直した記憶があるものだから。
 が、わからぬのはどうして『梁塵秘抄』が3冊、『水鏡』が同じく3冊あるのか、ということであります。持っている理由がとんとわからぬ。読みたいと思うたときにどれだけ捜しても見附からず、仕方なく買うたらばそのあと出てきて、「あちゃあッ」と天を仰いだてふパターンを踏まぬ書目ゆえ、なにがどうしてこうなったのか、皆目不明である。そういえばデュマ・フィス『椿姫』と柴田宵曲『古句を観る』も、ダブリが生じた理由に思い当たる節がない本でありました。
 ──それはさておき、100冊のリスト作成は何ヶ月か前に作り始めたときよりも、ずっと順調です。不完全ながらいちどは叩き台になるものができあがっている、というのが、いちばん大きな理由かもしれない。なるほど、ヒルティ曰く、仕事は思い立ったときに始めるのが最前である、とは真のようでありますね。
 とはいえ、絞りこみの作業が、では楽になるかというと、そうでもない。そんなこと、あるわけがない。むしろ難事に変貌するというてよい。でも、……1冊リストに入れるとあとからあとから芋蔓式に、連鎖反応的に、次々思い出されてくるのだから仕方がありません。その連想に歯止めは効かない。むしろ、思いつくままに一旦はリストアップして然る後、うんうん唸りながら愉しい絞りこみ作業へ移ればよい。というか、そう思えなければやっていられない(部分もある)のであります。
 さきほど、ストック原稿や手帳に書きつけた下書き、アウトラインなど瞥見して今後の見通しを検めてみたところ、この<岩波文庫の100冊>はどうやら年内にはお披露目できそう。これまでの経緯を鑑みるに、架蔵する岩波文庫の新規発見を避ける意味では、もう部屋の掃除をするのは止めにしておいた方がよさそうです……。◆

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