第2791日目 〈近松秋江「青草」の朗読台本に、アブリッジのテクニックを学ぶ。〉 [日々の思い・独り言]

 まさかいまになって気が付くとは……という経験、ありませんか? 何年も接していたにもかかわらず、疑問も調査もすることなく受動的に過ごし、最近ふとした拍子に調べてみたら、これまでの思いこみが瞬時に瓦解していった、という経験は?
 わたくしはあります。正確にいえば何度となくそうしたことはありましたが、今回程「なんてことだ……」と仰け反ったことは、ありませんでした。
 それはこういうことなのです。何年も前ですが、文学作品の朗読を寝るときに聴いている、と書きました。その折話題にしたのは、泉鏡花「怪談 女の輪」及び永井荷風「すみだ川」でした。これはみな、iTunesからダウンロードしたオーディオブック。他にやはりiTunesからDLしたPodcastで、宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」と萩原朔太郎「猫町」が、おなじように寝るときに聴くこと多い朗読作品でありました。
 実はもう1作、iPod touchに入っている朗読作品がありまして、それは近松秋江「青草」であります。朗読は羽佐間道夫。力の抜けたような、寂寥さえ漂わせる声がなんとも秋江綴る情痴の世界にぴったりで、是非にもこの人の声で「黒髪」三部作、「別れたる妻に送る手紙」と続編「疑惑」も聴いてみたいなぁ、と思わしむるぐらいに相性の良さを感じさせるのであります。
 それに居心地の良さばかり感じていたせいではなく、勿論わたくしの怠惰がいちばん大きく作用しているわけですが、さいきん岩波文庫の秋江を掘り出したのを契機に、朗読を聴きながら原作(この場合、原作というが本道なのか?)小説を読もうと思い立った。前日に「すみだ川」で試したところ、なんとも心地よい経験だったものだから、今日もその至福の時間を求めんや、と。
 そうして「青草」を開いて、耳を傾けた──ところ、のっけから目を疑い耳を疑ったのでした。
 26ページの短編、朗読時間は46分。冷静に分析するまでもなくちょっと考えてみれば、この時間でその分量を無削除版で収めるなんてこと、不可能に決まっているのです。羽佐間道夫の読むペースを加味すれば、尚更正解へ近附くのは容易だったでしょう。
 冒頭の1行に続くは第2段落でなく、第3段落。しかもその後も段落の途中で離れた箇所に飛ぶわ、接続をなだらかにするため接続詞等が補われるわ、と放送時間内に収めるアブリッジのテクニックを望むと望まざると勉強させられた、そんな思いでありました。
 複雑な気分ではありますが、元はラジオ日本の番組「聴く図書室」。その作業も致し方ないよね、と頷ける部分もあるけれど、やはり無削除版を聴きたい。
 ──原作のどの部分を省き、また表現や言葉が補われて、番組用朗読台本が作成されたか。いずれ本ブログにてお披露目させていただきます。けっして件の朗読番組や朗読者を貶める意はなく、純粋にテキスト生成の推移を知りたい、自分自身の手で台本作成を追体験してみたい、という動機からであります。こうした動機や実作業が発展、枝分かれした処の1つに、偽筆偽作というものがあるのかしらん、と、そんな考えがいま、ふと脳裏を過ぎったりして……。
 この作業のため、八木書店刊『近松秋江全集』全13巻を買いこみました。というのは冗談ですが、図書館で「青草」所収の第1巻と書誌の載る第13巻を借りてきたのは、事実であります(でもどうしたわけか、月報がない。別に製本されている?)。来週からはいっさいの予定が手帳には記入されておりませんので(淋しい)、この後ろめたくも愉悦迸る作業に勤しめるときの訪れを、わたくしは楽しみにしているのであります。◆

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