第2794日目 〈焼けぼっくいに火がついた;三島由紀夫を猟書するであろう来年。〉 [日々の思い・独り言]

 周期的に読みたくなる作家はどうやら誰にでもあるようで、1年ぶりに再会した元同僚は煙草の煙を宙に見送りながら、自分はコリン・デクスターと鮎川哲也っすね、といった。ロジックを尊ぶかれらしい発言である。
 人間の細胞は7年周期で入れ替わる。国書刊行会から出ていた『ウィアード・テールズ』全5巻のうち第何巻であったか、E・ホフマン・プライスが往時を回想したエッセイのなかと思う。巡り巡って再びそこへ立ち帰る、という意味ならば、成る程こちらも納得のゆくところ大いにある。
 ちかごろ無性に読みたくて溜まらなくなっているのは、おなじみ永井荷風ともう1人、三島由紀夫だ。高校時代に狂的なまでに熱中して、その後クラシック音楽のLP購入の資とされた、三島由紀夫。わずか数日ながら同じ世に生きたかれの作品によって、わたくしは<文学>の森に足を踏み入れた。そのまま勝手気儘にこの森を歩いて数十年になろうとしている。
 新潮文庫と中公文庫を中心とした三島作品の他、自決に触発されて数々出版された三島特集雑誌や単行本・新書など、学生時代に買い集めた三島本はむろん、これという価値を持たぬありふれたものであったり、古本屋の棚の隅っこで埃をかぶっているような代物ばかりである。つまり、学生の自由になるお金で買い集められるぐらい安価なものばかり拾い集めてきたわけ。それが為に数だけはあったのだ。
 当時蔵していたものはただ4冊の例外を除いて、綺麗さっぱり売り払った。古本屋から帰ったあと、空っぽになった本棚をみてどんな思いが去来したか、もう覚えていない。
 掃除の際、廊下に積んであったダンボール箱をひょい、と開けたら、黄帯の岩波文庫や秋成本と一緒に、その例外たる4冊が出てきた。新潮文庫の『潮騒』と『永すぎた春』と『女神』、『グラフィカ 三島由紀夫』がそれである。『グラフィカ 三島由紀夫』は没後20年企画<甦る三島由紀夫>の一環として、新潮社が新たに刊行した3点のうちの1つ(もう2点は、『三島由紀夫戯曲全集』と村松剛『三島由紀夫の世界』)。
 この数日、ぽつりぽつり、三島の小説を読んでいて、人工的美の世界とその内側へ潜む昏い影に心が再び囚われてゆくのに抗えない。懐かしさ、とか、そうした感傷的な気持ちは正直なところ、あまり感じていない。なぜなのかは、わからない。
 まぁ、そうした流れあって、他の三島の作品を読みたいな、と、思い立ったらおとなしくしていられぬいま、今宵。別件で開いていたGoogleで「三島由紀夫 古書」で検索してみる。「日本の古本屋」と「スーパー源氏」を中心に数千点の結果が表示された。雑誌の特集や怪しげなものまで含んでの数字にひるみそうだが、なに、大したことはない。雑魚は視界に入っても意識を向けることなく、無心に三島自身の著作だけを猟犬の如き目で追ってゆく。追って追って、追い続けて、──
 疲労。
 高校時代に読んでいた文庫は軒並み買い漁るとしても、その他についてはさしたる獲物は見附けられなかった。好きな作品の初版本は状態如何で検討するとして、全集はもう少し選択肢があると期待していたが、残念、駄目だった。
 いちど着火して再び燃えあがったこの炎、此度もそう易々とは鎮まりそうにない。
 来年は荷風と秋江の他、三島由紀夫の本を蒐集する1年となりそうです。◆

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