第2796日目 〈「やっぱり冬は明け方よ!」 同感です。〉 [日々の思い・独り言]

 まだ星は空にあって、凜と輝いている。吐く息は白い。手袋をわすれた手をコートのポケットにつっこみ、猫背ぎみで駅への道を急ぐ。──地下鉄の階段をのぼって地上に出ると、お天道様は東の空にすっかりのぼり、銀座の歩道は通勤姿の人でいっぱいだ。しかし、肌をさす空気のつめたさは、あいかわらず。目が覚め、意識も体もシャキッ、とする。そんな毎冬のルーティンの最中にてかならずというてよい程頭に思い浮かぶは、あの言葉以外になにがあろう、──
 「冬はやっぱり明け方に限るわよねっ!」
 咨これを知らぬものがあろうか、王朝時代きっての才媛、清少納言のこの言葉を?
 冬はつとめて。けだし卓見である。動乱の時代であろうと、泰平の時代であろうと、それは21世紀のいま、平成から令和に改元されたこんにちでも、変わるところはない。
 ところで、『枕草子』初段ではそのあと、どのように続くだろう。「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて」で一括りにしていると、それに続く清少納言の本懐はわすれてしまいがちだ。わたくしも全文を正しく覚えているわけではないけれど、思い出せるところを書いてみよう。ただいま東銀座なう、手許にテキストがないのでね。──インターネット? それに頼るは負けであります、と、なぜわからぬか。
 話がそれた。元へ戻そう。清少納言女史、冬を語りて曰く、「冬の早朝ってあわただしい。女御がしゃかりきになって炭を熾し、火鉢をあちらの部屋こちらの部屋へと運ぶの。その時間帯はとっても寒いから、この仕事はテキパキこなさないとならないわけ。でも日がのぼるにつれてあたたかくなってくると、火鉢の炭はくたっとしてしまい、わたしたちも早朝の無駄のない動きはどこへやら。やっぱりくたっとして、だらけてしまうの。なんか気に喰わない」と。
 清少納言はかわいらしい。文学史に名を留めた女流のなかで三本指に入るかわいらしさだ。かしこさといじらしさが同居し、才智にあふれ、人の縁にめぐまれてそれを大切にした女性である。すべて中宮定子のサロンなくしては花開き、認められなかったであろうことだ。もし清少納言が定子に使えることなかりせば、われらは『枕草子』という随筆文学の傑作に親しむことはできなかったに相違ない。
 早朝の、心身を鍛えて活発にさせる、あの峻厳な空気のつめたさは、もうすっかりゆるんだいま、午前09時03分。火鉢の炭の如く、後宮の女御たちの如く、くたっ、として、だらけてしまう、と清少納言がいうたのは、だいたいいまぐらいの時刻のことか。正直なところ、頭の回転は鈍り、本稿の筆の運びも停まりがちだ。くたっ、とだらけてしまうた結果である。この状態をさして清少納言は「気に喰わない」というか。となればわたくしも、「スミマセン」と殊勝に頭をさげて、その後はしばらく女史のご機嫌伺いに勤しむつもりだが──それも悪くない、ワネ。ぐふふ。◆

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