第2798日目 〈猪場毅、荷風に絶交されしこと。〉 [日々の思い・独り言]

 来週に刊行が迫った『荷風を盗んだ男 「猪場毅」という波紋』(善渡爾宗衛・杉山淳編 幻戯書房)の予約を先達て済ませたのですが、「通常注文で入ってくる出版社ではないので、もしかすると来年頭の入荷になるかもしれません。それでも宜しいですか?」といわれてしまった。もとより承知、首肯して注文伝票に諸々記入してきました。むかし神保町の某書店でも同じこといわれたなぁ、と、帰途立ち寄ったスタバでぼんやり想いだしたことであります。
 本書は版元の案内文に拠ると、佐藤春夫・永井荷風の当該著作から「来訪者」の木場貞のモデルとなった猪場の肖像を浮かびあがらせる資料集。編者による「解説」が本書刊行の経緯など語ってくれるだろうが、目次を一瞥して個人的に瞠目したのは、生田耕作先生校訂の「四畳半襖の下張」を収めた点だ。
 いま資料が手許にないので正確ではないが、これはたしか、生田先生が晩年、京都の小出版社から刊行した豆本叢書の特別版としてあった1冊でなかったか。存在を知って以来八方手を尽くして捜したが、そのうち日常の些事に紛れていつの間にやら捜索を止めてしまった思い出を伴うこの『四畳半襖の下張』に、このような形であうことになるとは、いやぁまさか夢にも思わなんだ。
 『四畳半襖の下張』−『来訪者』を巡る人間関係はこれまで専ら、(比較的資料にあたりやすかった)平井呈一サイドから考えられること多く、ではもう1人の<来訪者>木場貞こと猪場毅とはどのような人物だったか、てふ疑問へそう簡単に応えてくれる資料は揃っていなかった。わたくしが知り得た限り、猪場毅に触れて色眼鏡で見ることなく書かれたのは、私家版や同人誌等を除けば秋庭太郎の4巻より成る浩瀚な荷風研究書を嚆矢とし、その後は松本哉『永井荷風の東京空間』(河出書房新社 1992・12)がある程度でそのあとに続くものは、殆ど皆無であるまいか。
 猪場毅は俳人富田木歩に弟子入りして「芥子」という号をもらい、また前掲の『荷風を盗んだ男』はその木歩が著した随想「芥子君のこと」をプロローグに収める。俳人として相当に腕を鳴らしたと聞く猪場の新たな一面を知ることができそうだ。
 現在、その猪場の作品集が分厚な1冊にまとまっている。昨年12月に東都我刊我書房から出版された『真間 伊庭心猿作品集』がそれ。伊庭心猿は猪場毅の号の一つ、仏語「意馬心猿」に因んでいる。
 さてこの1冊、なにぶん高価であるゆえ未入手、内容の点検も当然できていないのだけれど、ここには伊庭の俳句や随筆等がどれだけ収められているのだろう。松本が報告しているハガキ大サイズの小冊子『絵入 墨東今昔』も全編が収められていることは、期待して良いのだろう。なにしろ総ページ数、384ページである。逆に収録されていなかったら、中指立てて汚い四文字言葉を叫びたいところだ。
 平井呈一がそうであったように、猪場についても荷風は日記『断腸亭日乗』に記し、出会いから蜜月、そうして破局に至るまでをつぶさに追うことが可能である。猪場毅については『真間』と『荷風を盗んだ男』を読んだあとつらつら考えてみることにするが、絶縁の決定打になったのは、『下谷叢話』の版権問題であったという。
 『下谷叢話』は私淑する森鴎外の史伝に触発されて、外祖父である儒者、鷲津毅堂とその縁に列なる大沼枕山の事績を調べあげて書かれた好著だ。これは幾度かの、丹念に追うと時にこんぐらかるような改訂を経て、いまでは岩波文庫で手軽に読めるようになった。改訂と出版の歴史は成瀬哲生の解説に詳しいが、猪場毅はいったいどこで、どのように絡んでくるか。
 猪場毅は東京日本橋浜町の産、幼くして母に死に別れてからは、「孤独の父と共に隅田川を遡り居所を転々とし、……母方の親戚をたより現在の紀伊に移り申し候」という。これは『断腸亭日乗』に書き写された猪場毅からの手紙の一節である。その後、上京して荷風に親近して浅草遊びなどに付き合い、やがて冨山房に入社。ここでお待たせ、『下谷叢話』の登場だ。
 『下谷叢話』は大正15/1926年3月、春陽堂から開版せられたのが世に出た最初である。その後披見し得た資料によって遺漏多く、改訂の必要を感じた荷風はさっそく手を入れ始めて昭和13/1938年11月、<冨山房百科文庫>の一として『改訂 下谷叢話』の刊行にこぎ着けた。
 その後、──昭和25/1950年8月刊中央公論社版『荷風全集』第13巻所収『下谷叢話』は、全集収録にあたり荷風が生前最後に補筆修訂したヴァージョンを底本に採用(その更なる底本は冨山房版と見てまず間違いないだろう)、昭和38/1963年11月刊の岩波書店版第一次全集第15巻では中央公論社版を底本とし、平成の世になって新たな編集方針の下刊行された最新の『荷風全集』は件の冨山房版を底本に採った。なお、岩波文庫が底本に仰いだのは、第一次全集即ち中央公論社版。荷風の補筆改修が入った最後の、謂わば著者の意思が最終的に反映された手沢本である。
 では、猪場毅に話を戻そう。
 最前、『下谷叢話』の版権問題が、荷風と猪場毅の絶縁の決定打となった旨申しあげた。事情は詳らかでないが、それは昭和15/1940年07月13日(土)の『断腸亭日乗』に記された、「冨山房書店不正の事」てふ一文に詳しい。要約すれば、こういうところである、──
 冨山房は社員の猪場を遣わして『下谷叢話』他一著を合本にして出版する事を提案、自分はこれを認めたが、猪場は他出版社の例に倣い特に出版契約書の類は作成しない、といった。昭和14年に出版された『下谷叢話』だが、冨山房は猪場解雇後に出版契約書を送り来たった。その条文に曰く、向こう15年間は同書の他社からの刊行並びに全集編入を認めない、と。
 荷風、これに激して書くは以下の通り──「冨山房は始より其版権を横領する目的を以て余の許に店員猪場を遣せしものなるや明なり。猪場はこの事を承知の上にてなせしものなれば其行為は詐欺なり。冨山房出版部と彼との間には利益分配の黙契ありしや亦疑を入るゝに及ばず」(第一次全集第23巻P50 昭和38/1963年3月)と。このあとは猪場への人身攻撃の体を為すが、谷崎潤一郎と佐藤春夫の許には既に出入りを禁じられている旨報告されている(いみじくも戦後、平井呈一が幸田露伴の許を訪ねたら途端に「帰れっ!」と罵倒、追い返されたという挿話が思い出されることである)。
 また、秋庭太郎『考證永井荷風』は「『下谷叢話』版権問題の故を以て、荷風は弁護士の意見を問ひ、その結果、荷風は猪場宛に絶交状を郵送した」(P537 岩波書店 昭和41/1966年9月)と書く。
 この件に関しては荷風の報告を見るだけなので、裏附けになる資料或いは逆に「否」を呈す資料を披見し得ないのが残念だが、これは後日の宿題としたい。それとも、『真間』と『荷風を盗んだ男』ではこのあたりの事情が説明されていたり、或いは猪場自身の筆で語られているのだろうか。嗚呼、前者については早急に入手の要ありとわかってはいる、わかってはいるのだが……っ!!
 「来訪者」や『断腸亭日乗』から浮かびあがる猪場毅は殆ど極悪人である。触れるモノ触るモノことごとくに悪感情を抱かせる、そういう星の下に生まれついたとしか言い様のない人物である。秋庭『永井荷風傳』(春陽堂書店 昭和51/1976年1月)が伝えるところでは、『樋口一葉全集』並びに『一葉に與へた手紙』編集に際して、和田芳恵が複雑な心境を綴った文章が紹介されている。編集者としての才覚を高く評価した上で和田の曰く、「世の中を猪場は甘くみたようである」(P444)と。
 が、家庭人としてはまた別の顔だった様子で、養嗣子清彦が秋庭太郎に宛てた書簡は言外にそれを窺わせる節が見て取れる。社会人としての顔と家庭人としての顔がまるで違う男なぞ掃いて捨てる程いることは、男性諸氏なら覚えもあるだろう。むろん、清彦氏も荷風との一件、文豪たちとの間に生じたトラブルについて仄聞するところは多々あったろう。とはいえ、毅に対して含むところはなかったはずだ。そうでなければ、「どうか事実のまゝの父の像をお書き下さい」(P446)なんて台詞は出るまい。
 猪場毅の著書は前述『絵入 墨東今昔』の他、『心猿句抄やかなぐさ』や『絵入 東京絵ごのみ』などがある由。
 その猪場は荷風に先立つこと2年前、昭和32/1957年2月25日に千葉県市川市真間の自宅にて逝去した。享年51。『断腸亭日乗』にその報はない。亡くなる直前まで書かれた日記と雖もその頃は既に天候と来客、食事のこと程度しか記していないため、荷風がかつて交を結んだ猪場の逝去を知っていてなお記録しなかったか、知らぬまま幽冥の人となったか、定かでない。資料にざっと目を通したに過ぎぬところもあるので、もうすこし調べてみる必要があろう。
 荷風生誕140年・没60年のメモリアル・イヤーに『真間』と『荷風を盗んだ男』の刊行さることで(とはいえ、『真間』はちょうど1年前の出版だが)、荷風の交友に於いて殆ど未開の地であった猪場毅の像がようやくわれらの前に立ち現れる。これによって今後、荷風研究がどのような方向を目指すのか、見守りたい。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。