第2799日目 〈池田大伍と永井荷風;荷風が経験した、数少ない濃厚な人間関係。〉 [日々の思い・独り言]

 ぼんやりと秋庭太郎『永井荷風傳』を読んでいて昭和17年の項に入った途端、むくり、と起きあがってその名を思わず確かめ、天井をしばし睨んだことである。そうして『断腸亭日乗』にあたり、ふむ、と頷いた次第。
 池田大伍、本名池田銀次郎というがその名である。劇作家として作品を残し、また『元曲五種』てふ著作が現在でも東洋文庫で購読可能。明治18/1885年9月6日〜昭和17/1942年1月8日、享年57。死因は急性肺炎であったという。
 『断腸亭日乗』昭和17年1月9日条;卓上の新聞を見るに池田大伍君昨日病歿の記事あり。行年五十八と云。余大伍君とは文芸の趣味傾向を同じくせしを以て交最深かりしなり。今突然そのなきを知る。悲しみに堪えざるなり。告別式明後日
 その日の欄外には朱筆で「池田大伍歿」と。
 同年1月11日条;大伍君葬式に行きたしと思ひしが風邪行くこと能はず。
 ……そうか、荷風と池田大伍は交誼を結ぶ仲であったのか。文芸の趣味傾向とは、専ら演劇を中心にいうているのかもしれない。それにしても成る程、自分のなかで両者の結びつきはすこぶる意外であった。もっとも、全集も秋葉の著書も入手して書架に備えるようになったのは今月のことなのだから、仕方ない。
 試みに新版荷風全集第30巻を持ってきて「池田大伍」を検めると、古くは大正8年8月1日に既にその名があり、没した年までコンスタントに登場している。殊大正末期から昭和5年あたりまでは殆どレギュラー・メンバー。『断腸亭日乗』は大正6年9月16日起筆のため、それ以前と思われる2人の出会いについては残念ながら不詳としか言い様がない。ただ年譜や荷風の文章、池田大伍の仕事から推し量るに、二代目市川左團次が仲立ちの役を果たしていたであろうことは、めずらしくWikipediaが正確な情報を提供している。
 わたくしが池田大伍の名を初めて知ったのは、いまを遡ること四半世紀ばかりむかし。三田で国文学を学ぶ傍ら民俗学に秋波を送っていた時分である。要するに、恩師の縁で折口信夫の学統に引っ掛かり、そこから池田彌三郎の著作を神保町の古書店の棚や古書目録で目につく端から買い集めていた頃に池田大伍の名前を知り、そのまま『元曲五種』を購い読むに至ったのだ。
 池田大伍は池田彌三郎の叔父にあたる。池田の実家は銀座で長く営業した天麩羅屋「天金」、三代目池田金太郎は彌三郎の父、大伍の年子の兄だ。池田彌三郎『銀座十二章』(旺文社文庫/朝日文庫)の「天金物語」に拠れば、初代関口金太郎によって屋台から始まった天金はその後現在の和光がある場所に店を構え、明治23年、初代逝去に伴い養子池田鉸三郎が二代目として店を継ぎ、その大伍の兄・彌三郎の父である三代目池田金太郎、彌三郎の兄四代目池田延太郎を経て昭和45/1970年、五代目の時代にその歴史に幕を降ろした。かつての常連客に徳川慶喜がおり、好んでかき揚げを食したという(徳川家に天ぷらって或る意味、鬼門に思うのだけれど)。また、森茉莉も両親(つまり、鴎外夫妻!)に連れられて通った様子。岡本綺堂の随筆にも「天金」の名が出る。
 大伍は劇作家であった。その仕事の全貌はなかなか見えづらく、国立国会図書館に通って著作一覧を作ろうとしたが、諸事あり音をあげて放棄していまに至る。恩師に教えられて『名作歌舞伎全集』第25巻を図書館から借りて『西郷と豚姫』を読んだが、正直なところ、あまり印象に残るようなものではなかった。年末休みに入る前に出掛けて、借り出してみようと思うのだが、さて読後感に変化が生じるか、われながら期待である。
 さて、『断腸亭日乗』に池田大伍が初登場するのは大正8年8月1日、帝国劇場にて尾上菊五郎の『怪談牡丹灯籠』鑑賞の帰途、雨降りのため傘を連ねて帰った、という短かな一文に於いて。この日の鑑賞は、当時荷風がかかわっていた玄文社発行の雑誌『新演藝』観劇合評会のためである。年譜に基づけばこれに先立つ同年6月6日、日本橋若松家にて芝居合評会があり、荷風は大伍と顔を合わせているはずだが、『断腸亭日乗』にはなんの記録もない。さして記すべき印象を持たなかったのかもね。
 荷風が大伍の芝居を鑑賞した最初の記述は、大正10年10月20日条に見られる。曰く、「帝国劇場に往き池田大伍君の傑作名月八幡祭を看る」と。実はこの日も雨だった。まだ途中の読書ゆえ、この後大伍作芝居を荷風がどれだけ鑑賞したかわからないけれど、荷風が友人の作品を評した文章などあれば読んでみたいものである。
 消えては浮かびあがる池田大伍と、荷風はほぼ四半世紀の長きに及ぶ期間、交友を持つに至った。はっきりいって、荷風の性格を考えればこれは驚愕するにじゅうぶん値する事実である。途中で断絶期間があってその後また交友が復活した、というならまだしも(荷風の性格上これも考え難いけれど)、全集の索引を閲してみてもそのような断絶は認められない。平井呈一を信頼して日記の副本の作成を依頼したり、死後の著作管理の一切を任せる、というたのとは別のレヴェルで、荷風が生涯で経験した、数少ない濃厚な人間関係の1つといえるのではないか。それとも若き日に結ばれた交誼は齢重ねた後のそれとは別次元のもの、か。
 考えてみれば、折口信夫と永井荷風は同時代の人であった(荷風が8歳年長)。折口の著作、弟子たちの著作に登場する固有名詞が『断腸亭日乗』に現れたって、ちっともふしぎでない。ただ、池田大伍の名前を秋葉の著書で見掛け、荷風全集を引っ繰り返すまでその事実にまるで気が付かなかったのだ。天金というキーワードで以て更に芋蔓式に繫がっていったとなると、もはや本稿をどう結んでよいか、わからぬ。為、ここで擱筆とする。
 なお、池田彌三郎が叔父・池田大伍に触れた文章は『わが戦後』(牧羊社 昭和52年10月)と『わが町 銀座』(サンケイ出版 昭和53年9月)他に見られる。◆

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