第2815日目 〈志賀直哉? ボクには駄目だ、文学史にその名あるのがふしぎなぐらいだ。〉 [日々の思い・独り言]

 元同僚が死んだ。遺族から本が数10冊届いた。本人の遺志というか、形見分けの由。志賀直哉の初版本と全集である。彼女は近代文学愛好家で、思いがけなく話し相手を得た気分であった。席が隣りになったりすると様々話をできたのは、まぁすなおにいって嬉しかった。同僚は、志賀直哉を殊に慈しむように愛した。初版本が揃っているのはなんでも祖父・両親が編集者であった由縁らしい。
 が、さて、わたくしは志賀直哉を好まない。それを相手は知らなかった。
 高校何年生のときだか、現国で「城の崎にて」を読まされた。後半の描写の感覚的な点に惹かれた。とはいえ、山手線に撥ねられたら幾らなんでも3週間程度の「養生」じゃあ済まんだろ、最悪死んでいるよな。その旨宿題の感想文に書いて出したら、怒られた(これをこの“文豪”さんの誇張のねじけさいやらしさと知るのは数年経ったあとのこと)。
 その後も志賀直哉の小説を読んだことは、ある。勿論、義理と義務からだ。そんなでなければ読むものか。高校時代相応に感銘を受けてすぐにその興は引き、冒頭の件だけが残り続けた「城の崎にて」も、経年と共に阿呆らしい駄文にしか思えなくなった。だからなんだ!? という。正岡子規の言を借りれば、志賀直哉は「小説の神様」ならぬ「小説のゴミ様」にして「城の崎にて」はくだらぬ作にて有之候、というところ(子規よ、済まぬ、斯様にくだらぬ作家のために言葉を引くことになり)。よくこんな代物を教科書に載せる。文部科学省の学習指導要綱や教科書会社の見識を疑います。なにを良しと思うてこれを載せるか、四方を灰色の壁に囲まれた窓のない部屋にてスチール机をはさんで灯りを相手の顔に照らしつけて、じっくりゆっくりこちらの気の済むまで尋問してやりたい気分である。件の元同僚は逆に高校時代、「城の崎にて」を読んで志賀直哉信奉者になったそうだが、お生憎様。
 有名作、代表作と呼ばれる作品は文庫化されているので、同僚との話をきっかけに読んでみた。一部は読み直しで、極めて苦痛な経験だったが、とまれ、それらも読んだ。ますます嫌悪感が募った。どうしてこの人が近代文学史に名を刻んでいるのか。これの作物を愛読できる人の文学観というか審美眼は、果たしてどうなっておるのだろう。
 『暗夜行路』『小僧の神様』『万曆赤絵』『和解』『真鶴』『大津順吉』『網走まで』……等々。どれもこれも、睡眠誘導剤にはぴったりだ。わたくしはぜひ志賀くんの作品を不眠症の特効薬として厚生労働省へ認可を求める運動の旗振り役を担いたい。
 正直なところを申して、志賀の小説には人間の血が通っていない。とても無機質である。そうしてなにやら排他的、利己的、自分ファースト、上から目線である。不躾で、だらしなく、厭味である。地に足をつけて呼吸するのを拒んでいるかのようである。同じ白樺派でも武者小路実篤との決定的な相違は、この点にありましょうな。霞でも喰らっておればいいよ、君にはお似合いだ。ハハ。もっと正直にいうてしまえば、志賀直哉の小説1作を読んで砂を噛むような思いを味わうぐらいなら、時間の浪費と感じるぐらいなら、ラテン語の辞書でも読んでちょっと頭が良くなったような錯覚を味わう方が余程マシでありますよ。
 志賀直哉の小説、閉口だな。根太が腐っている。卑屈だよ、まったく。今後の近代文学史の課題は、志賀のいない文学史の構築だ。もっともそんな勇気のあるセンセー方なぞ、草の根分けて探そうとしても無駄かもしれぬ。所詮はいずれもへっぴり腰。
 ああ、そうそう、そんな人の作物でも1つだけ、良いと思えるものがあったな。短編で、「剃刀」。思わず背筋がゾワッ、とする。幻想文学の領域とかそういうの関係なく、志賀の唯一の傑作だ。作家の真の職能は傑作を生み出すことに他なし。この短編が書かれただけでも、もしかすると志賀が無駄に筆を費やして、似合わぬ対談にまで顔出して醜態を曝し続けた甲斐はあったのかもしれないね。呵々。
 件の元同僚の遺族から届けられた志賀直哉の本だが、視界に入れるも目障り、ただの場所塞ぎでしかないので、躊躇うことなく迷うことなく断ることなく非道いと思うこともなく、馴染みの古本屋に引き取ってもらった。査定額は126万。返事は保留している。◆

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