第2843日目 〈読む本の傾向が変わったとき、その転換点にあって自分に強く影響を与えた本 1/2 ;渡部昇一『続 知的生活の方法』〉 [日々の思い・独り言]

 小説が大好きです。読むのも、書くのも、これに優る愉しみがこの世にあろうとは、とうてい思えません。小説 − 物語をたらふく愉しむことができるなら、どんな境遇に落ちたって構わない……妃の位にもなににかはせむ、と吐露した孝標女に心よりの共鳴を覚えるのも宜なるかな。
 高校を卒業して進学先は推薦入学で決まったのですが、その際に面接なるものがあり、学院事務長と文学部長の2人が相手でした。どんなことを質問されたか、まるで覚えていないが、ただ1つだけ覚えていることがあります。どんな人生を歩みたいですか、なる主旨の質問。正確には記憶していないが、そのときわたくしはこんなことを答えました。曰く、会社に入って出世とかしなくてもいいから生活するに困らないだけの給料をもらって、好きな女性と暮らし、好きな本を読んで、明日の心配をすることなく暮らせればいいです、と。
 顧みてそのときの答えのままに、今日まで人生を歩んできた──と書ければいいのだが、現実は然に非ず。どこがどうとか詳らかに述べる必要はないが、それでも折節<来し方行く末>、そうしてなにより<いま>に思いを馳せるとき、このときの面接の答え以上の欲というか望みが思い浮かばないのです。就職してからはそれゆえに困った場面もありましたが、そんな横道のお話はさておき。
 年齢を重ね、経験を重ねるにつれて、徐々に自分の気持ちが小説から離れてゆくのがわかってしまい、淋しい思いをしています。事実は小説よりも奇なり。むかしからの言葉を信じる気には勿論なれないけれど、さりとて否定するだけの根拠も持ち合わせていない。大方の成人ならば、思い当たる節はあるのでは? もっとも、それでも胸を張って「小説が好きですよ。それ以外のジャンルの本は読む気になりませんね」といってのける羨ましき強者も居られましょう。ただ、わたくしはそちらに真より与することができない者なのです。
 ここでいう<小説>が今日の、所謂エンターテインメント小説、ジャンル小説であることは、遅ればせながら申し述べておきます。
 小説から離れた心が向かった先は、修養書とでもいうべき書物でした。修養書、というても漠然としますが、わたくしは単純に、人を成長させるに益する本の称、と考えております。自己啓発といえば今風なのでしょうが、わたくしのいう修養書には偉人の伝記や立志伝、パブリック・スピーキングやマナー、道徳なども含まれてきますので、敢えて中身の薄っぺらい、自ずと尊大の傾向過多となりがちな「自己啓発」なるジャンルとは線を引くことといたします。

 転機になったのは、高校3年になる年の春休みに読んだ本と、進学した後に亡父より与えられた1冊の本でした。
 前者は、渡部昇一の『続 知的生活の方法』(講談社現代新書)。これまでもさんざん挙げた本なので恐縮ですが、これを抜きにしてはどうしても話が画竜点睛を欠きますゆえ、またか、と思われるかもしれませんがご寛恕の程願いたく。
 『続 知的生活の方法』は、横浜駅東口の地下街、ポルタにあった丸善で買った。1989年2月の終わり。
 どうして当時縁薄かった新書コーナー(というても、棚3列程度のもので、岩波新書・中公新書・講談社現代新書、その3レーベルぐらいしか幅を効かせていなかった時代である。隅っこには群小レーベルがまとめられていたかもしれません)で足を止め、特に講談社現代新書の背表紙を目で追っていたのか。そのなかでも渡部昇一の本に手を伸ばしたのはなぜなのか。わからない。呼ばれている気がした、素直に手を伸ばしてみた、としか言い様がありません。
 手垢で汚れて、すっかりくたびれた『続 知的生活の方法』を、いま書架から持ってきているのですが、開いてみると、渡部がスコットランドにあるウォルター・スコットの書斎を訪ねたときのことやスコットの生活に範を仰いだ知的生活の要旨にまず惹かれるところ大で、次いで自分のライブラリーを作りあげてゆく、という記述に感心して、その本をレジへ運んだと思しい。
 『知的生活の方法』よりも『続 知的生活の方法』を先に買い、読んだのは、単純に前作が棚になかったか、単に『続 知的生活の方法』に惹かれるところが大きかったか、或いは単なる見落としもしくは存在を知らなかったか(え?)。定かではない。
 とまれ、帰りの電車のなかで読み始め、寝食を忘れて読み耽り、一両日中に読了。たった1冊で渡部昇一シンパとなり、以後『知的生活の方法』に始まり、講談社学術文庫に入る『教養の伝統について』『「人間らしさ」の構造』を購い、古本屋で偶然見附けた『クオリティ・ライフの発想―ダチョウ型人間からワシ型人間へ』と『知的風景の中の女性』(いずれも講談社文庫)を買ったがために、帰りの電車賃がなくなり保土ケ谷から横浜まで国道1号線を歩き通すはめになったなど、その年はまさしくわたくしにとって渡部昇一イヤーであると共に、小説以外に読書の情熱を傾けられる本/著者を(自分の力で)見附けた、まさしくメモリアルな1年となったのでありました。
 訳書についてもかれの訳したハマトンの単行本3冊(『知的生活』『知的人間関係』『幸福論』)を、古本屋をまわって苦労して買い集めました。読んですぐに、内容がよくわかった、とはならぬものでしたがその後何年にもわたって、手にするのは時々なれど、飽きることなく読み続けることをしたお陰でか、なんとなくわかるな、というぐらいにはなった。それだけでも自分では満足でした。
 渡部訳の修養書となると他にも、ウェイン・ダイアーという人の本からも多少なりと影響は受けているはずですが、そこで得た修養が果たしてどれだけ己の血となり肉となったか考えると、正直なところ自信はまるでありません。為、これについて述べて深入りするのは止めておきます(自分でも話がどのように展開してゆくか、皆目見当が付きませんのでね。でも、そのうち「感想」という形でその一端をお伝えすることはあるかもしれません)。
 その後、幾つもの渡部昇一の本を読み続けてゆくことで、ハマトンやダイアーのみならずヒルティを知り、フランクリンの自伝に手を伸ばし、幸田露伴や本多静六の本を見附けてわからぬながらもとりあえず勢いに任せて丸ごかしに読み倒し、ヒュームの文庫を古本屋で手に入れてその論旨の明快さと文章のわかりやすさに驚倒したり、佐々木邦の小説を買って存分に楽しみ、また『知的生活の方法』を精読して自分の学問の方向性や能動的知的生活の仕方について考えることしばしばであったり、まぁ、渡部昇一の本、就中『続 知的生活の方法』に出会うことなかりせば、至極ツマラヌありきたりな読書を続け、フィクション以外の文章を書くこともなかったであろうこと、そうして文章を書き続けることもなかったろうこと、容易に想像できて身震いするのであります──。
 ──これが、高校3年になる年の春休みに読んだ本のことであります。或る意味でわたくしのすべてが、殆どすべてがこの1冊から始まっているように思えます。この1冊こそが、恩書のなかの恩書なのであります。

 亡父より与えられて、これが転機となった本のあることは、先程述べた通りであります。
 これもまた『続 知的生活の方法』と同様、手にするごとに読み耽って己を鍛えるに益あり、その後も1年に1度は必ず読み返す本なのですが、この本についてはまた明日にお話しさせていただこうと思います。
 紙幅が尽きた? いえ、いえ。そんなことではありません。もうすぐ月曜日の午前1時、CSで観たい映画が始まるのです。わたくしにとっては読書したり文章を書くと同じぐらい、大事なことであります。
 ただ、著者と書名は挙げておきます。読者諸兄へのせめてもの礼儀でしょう。それは、チェスターフィールド著竹内均訳『わが息子よ、君はどう生きるか』(三笠書房)であります。
 それでは、またあした。◆


知的生活の方法〈続〉 (1979年) (講談社現代新書)

知的生活の方法〈続〉 (1979年) (講談社現代新書)

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/02/03
  • メディア: 新書




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