第2851日目 〈崖を削り、土を盛り、地下を抉った六本木一丁目に、ひっそりと偏奇館跡碑はある。〉 [日々の思い・独り言]

 須賀敦子が偏奇館跡を訪れたことをエッセイに書いて、それがいま永井荷風『麻布襍記』(中公文庫)の巻末に収録されている。彼女がいつ頃そこを訪うたのか、調べが行き届かず済まぬことだが、すくなくとも須賀が見たことも想像したこともないだろう、現在の偏奇館跡とその周辺をわたくしは見ている。
 彼女がこの地を散策した或る年の五月初めの休日の朝。その頃の六本木一丁目のあたりは地域の再開発計画が破綻して、霊南坂からアメリカ大使館、現在のThe Okura Tokyo(当時はホテルオークラ別館として開業していたか)、スペイン大使館、スウェーデン大使館を横に見ながら登ってくると、そこから先は建設現場でお馴染みなスチール壁で覆われて、江戸の面影戦後もまだ辛うじて残ったこの界隈からそれを一掃して殆ど廃墟と見紛う光景が広がったのではないか。すくなくとも、現在の姿を須賀敦子が目にすることはなかった。
 荷風はこの地に大正9/1920年5月、かねてより普請中であった洋館の完成を待って、移ってきた。その前年に土地の貸借契約を(代理人を立てて)締結して後、件の洋館を翌春落成に合わせて造築したのである。当時の住所は、「東京市麻布区市兵衛町一丁目六」であろう(よく「崖上」と、さも住所の一部の如く列記する文献を稀に見掛けるが、それを書いた衆は国立国会図書館や港区役所、或いは管轄法務局等へお出掛けされるがよろしかろう)。
 その崖上の土地の初見から偏奇館入居までを『断腸亭日乗』で追うと、以下の如し、──
 大正8年11月8日条:麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初頭の暮霞に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。
 同月12日条:重て麻布市兵衛町の貸し地を検察す。帰途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到処に好し。
 同月13日条:市兵衛町崖上の地所を借ることに決す。建物会社々員永井喜平を招ぎ、其の手続万事を依頼せり。
 12月8日条:留守中箱崎町の大工銀治郎麻布普請の絵図面を持参す。
 同月15日条:午後永井喜平麻布借地の事につき来談。
 大正9年正月3日条:歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。
 同月8日条:大工銀治郎を伴ひ麻布普請場に赴く。
 同月30日条:大工銀治郎来談。
 2月14日条:建物会社々員永井喜平見舞に来る。
 同月24日条:午後永井喜平来談。
 3月9日条:麻布普請場に赴く。近隣の園梅既に開くを見る。
 4月13日条:麻布普請場よりの帰途尾張町にて小山内君に会ふ。
 同月16日条:半蔵門外西洋家具店竹工堂を訪ひ、麻布普請場に至る。桜花落盡して新緑潮の如し。
 5月2日条:麻布普請場に往き有楽座楽屋に立寄り夕刻帰宅。
 同月21日条:永井喜平来談。
 同月23日条:この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。
──と。
 そうして荷風は『麻布襍記』に収められた随筆「偏奇館漫録」と「隠居のこごと」に、偏奇館周辺の地理や謂われを綴った箇所がある。本来ならそれについてもここで取り挙げるべきだろうが、ちょっとその記述に触発されるところあり、むかしの東京市の地図を探して調べてみたい部分があるため、この点に関しては後日に譲ることにしたい。
 さて。
 いちどわたくしはなにかの文献で、当時の麻布を撮った写真に偏奇館の一端が写るのを見た事がある。まこと、その端は、断崖絶壁とはいわぬまでも東京市中にしては急な傾斜角を持った大地の縁部分である。そうしてそれは、実はそのまま現在の六本木一丁目に重なる地勢でもあった。
 いちど歩いてみられると良い。再開発ゆえに消えた落合坂のような例もあるとはいえ、現在の泉ガーデンやアークヒルズ、泉ガーデンレジデンスの立地が、六本木一丁目駅から大使館が建つ霊南坂の路地に至るまでの斜面をよく活かしてあることに、気が付かれるのではないだろうか。ただ、そこそこ複雑にエスカレーターが走り、屋外に怪談ならぬ階段はあってもひと思いにまっすぐ上り下りできないことで、自分のいま居る場所が刹那わからなくなったりする弊害はあると雖も、なんとなく体で感じていただけるのではないか、と、再開発前から馴染みの場所でいまはここに通勤することとなったわたくしは思うのである。
 須賀敦子が訪れたときは宙ぶらりんになっていた再開発計画はその後突如として動き始めて崖を削り、土を盛り、地下を抉って東京メトロ南北線の開通前後に周辺はオフィスビルが建ち並び、むかしを知る人がその光景を見たらかならずや目が点になるであろうぐらいの変貌を遂げて、面目を一新した。思うに東京23区内でここぐらい、地勢そのままにむかしの面影を掃討して、華やかにして眠ることなき街へと衣替えした場所も、そう思い浮かばないのである。
 永井荷風はこの地へ移り住んで以後、幾つもの作品を書いた。『雨蕭々』を皮切りに『麻布襍記』、『下谷叢話』、『つゆのあとさき』、『濹東綺譚』、「来訪者」等々。そうして昭和20/1945年3月9日、偏奇館は米軍の空襲によって焼亡。その一切を荷風は離れた場所から観察して、『断腸亭日乗』に清書した。蓋し『断腸亭日乗』最大級の白眉というてよい。曰く、
 「三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、……麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を巡り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身を隠し、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、……近づきて家屋の焼け倒るゝを見定めること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館樓上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり」云々。
 また翌る3月10日の条に曰く、「嗚呼余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲して文筆に親しみしこと数れば二十六年の久しきに及べるなり……昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべからず」と。
 実際に火事で家をなくし父を亡くした身には、荷風の行動は狂気の沙汰である。文学者として、というよりも荷風という不世出の個性が為せる技/業であるのは重々承知、だがしかし、わたくしには地に唾吐き捨てて、定家卿よろしく「吾が事に非ず」と切り棄てて、永井壮吉(荷風本名)という人の人格を疑いたい。
 かつて麻布区市兵衛町1丁目の偏奇館に住まった荷風に、再開発が実はリスタートを切っていたことを知らぬままここを訪ねて逝った須賀敦子に、現在の六本木一丁目界隈を見せたら、果たしてかれらはなにをいうのだろう。◆

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