第2867日目 〈聖書つれづれ草〉 [日々の思い・独り言]

 「あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。/主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。」(イザ60:20)
 わたくしはこれは、婚姻を結ぶ相手との縁をいうのだと、勝手に解釈しています。<主>というが勿論、永遠なる結びつきの伴侶をいう。心も体も信仰も、この言葉の下に調和し、永久に結びついて未来への礎となる──。
 「神が結び合わせたものを人は引き離してはならない」(マコ10:9)、「信仰と希望と愛、この3つは永遠に残る。この内もっとも大いなるは愛である」(一コリ13:13)、という福音書・パウロ書簡の言葉と併せて、大切に想い、噛みしめてよくその意味するところを考えるべき言葉でありましょう。

 聖書読書ノートとしての機能を本ブログが終えて、4年近くになろうとしています。逆にいえばその後4年もだらだらと、小説やエッセイなど飽きることなく書き綴ってはお披露目してきたわけですが、いまでも時々、なんの目的を持つことなく、聖書を読みます。
 うん、訂正しよう。「目的なく」読んでいるばかりではない。出典を確かめるため、状況を確かめるため、或いはそのときの心境に即した言葉を探して、繙きもする──というか、たぶんその方がしばしばなように思う。
 でも、聖書って不思議な書物です。
 そのときの自分の気持ちにかなう言葉が、開いたページのどこかに埋もれている。そうしてそれをこちらが見附けるのを、待っているように思えてくる。勿論、「かならず」とはいえない。「ほぼ8割の確率で」というが良いところでありましょう。諫めの言葉を探しているのに開いてみたら「雅歌」であったらば、これはもうやり直しする他ありません。
 かつてディックは、『易経』を採ってその託宣を参考に小説の執筆を進めたとか聞く。実際のところはどうであったか。典拠となる文献が手許から散逸してその後買い直すこともしていないので記憶に頼った物言いとなることをご寛恕願いたい。
 されど聖書に於いても同様のことが可能でありましょう。適当に開いたページのなかに、自分の気持ちにかなう言葉を見附けられる書物なんて、この世にどれだけあるというのか。すくなくともわたくしは足掛け8年実質7年、聖書をバカ素直に最初から最後まで読んできた経験を踏まえて、或る程度まで自信を持っていえるのです;聖書はその稀なる1冊である、と。

 聖書といえば何年か前にCSで観た『THE BIBLE~選ばれし者たちの歴史物語~』というドラマ。その続編『A.D. 聖書の時代』(『A.D. the Bible Continues』)が本国アメリカではとうに放送済みなのだが、日本では未だCSで放送される気配がない。
 日本語字幕なしの輸入版DVD/Blu-rayがAmazonにて発売、またNetflixで配信されているが、できれば『THE BIBLE』同様、吹き替えで観たいのだ。配役は当然として、声優たちがこれ以上ないぐらいにハマった聖書のドラマなんて、そう滅多にあるものではなかったから。が、前作とはキャストが一新されているようなので、そのあたりは実際観てみないと判断がつかないね……。
 たしか『A.D.』はイエス磔刑から復活、ステファノの殉教やサウロの回心、ローマ最初のキリスト者の誕生までを描いている。即ち、『THE BIBLE』の最終話とかぶるところだいぶある構成。ちょっとこのあたりは記憶が曖昧だけれど、間違っていないと思う。
 もうヒストリー・チャンネルが腰をあげてくれるのは諦めて、Blu-rayを買うか、Netflixに登録するしかないかなぁ。◆

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