第2869日目 〈青空文庫で太宰治「諸君の位置」は読むな。〉 [日々の思い・独り言]

 漫然と──本当はなにか目的があったはずなのだが、忘れた──太宰治の著作年譜を眺めていたら、否応なくその項目で目ン玉が止まった。件の条に曰く、「昭和15/1940年3月 『月刊文化学院』に「諸君の位置」を発表」と。
 こ、これはいったいなんだ? 「諸君の位置」とは、発表媒体から察するに、随筆のようである。『月刊文化学院』とはおそらく当時の文学科有志による同人雑誌に相違ない。それにしても、咨、まさか、太宰と文化学院が結びつくとは……!
 文化学院とは大正10/1921年、神田駿河台に創立せられた自由主義を謳う学校である。創立者は西村伊作。学監・講師陣には錚々たるメンバーが名前を連ねる。およそ日本の近代文芸史に名を残す人は残らず、駿河台に集って教鞭を執ったのではないか、と錯覚してしまうぐらいだ。創立当初は与謝野鉄幹・晶子夫妻、画家の石井柏亭、婦人運動家の河崎なつを中心に作曲家の山田耕筰、フランス文学者の秋田玄務、哲学者の和辻哲郎、物理学者の寺田寅彦、作家の芥川龍之介や有島武郎、川端康成などが、常勤非常勤臨時の別なく学生たちの指導にあたった。
 美術部同様、創立当初から学院の主柱としてあった文学部の初代部長は与謝野鉄幹(寛)である。第2代目は菊池寛、第3代目は千葉亀雄、そうして第4代目にして戦前最後の、当局によって学院が強制閉鎖される昭和18/1943年9月1日まで文学部長を務めたのが、西村伊作の同郷人でもあった佐藤春夫。就任は昭和11/1936年1月と、学院年表にある。また、文学部の学生有志による同人雑誌、『月刊文化学院』の創刊は昭和14/1939年6月であった。その題字は当初、佐藤の筆に成るものが使われていた由。因みに文化学院50年史『愛と叛逆』(文化学院出版部 1971/5)の巻頭口絵には、『月刊文化学院』の書影が載る(第29号「与謝野晶子追悼特集号」)。
 文化学院は三田と並んでわたくし、みくらさんさんかの母校でもある関係で、そのうちに簡単な学院史のようなものを、自分が通った時代の点描と併せて書いておきたい。
 ……ここでようやく太宰治の登場である。
 『太宰治全集』別巻(筑摩書房 1992年4月)の詳細な年譜に拠れば、昭和15年正月、3が日のどこかで太宰は佐藤春夫の許へ、年賀の挨拶に訪れた。「昭和十一年十月以後、破門のようになって」いたことが、併記されている(P540)。
 ここで年譜をさかのぼって該年月にあたると、成る程、膝を打って「あの事件のあった年か!」と首肯させられるのだ。昭和11/1936年は『晩年』が刊行されて太宰の作家人生が始まったメモリアルな年であるが、一方でパピナール中毒治療と麻薬禁断の目的で二度にわたって入院を余儀なくされた年であり、同時に佐藤との間に芥川賞にまつわるやり取りが行われた年でもあった(「今度の芥川賞は太宰君、キミで決まりだと思うよ」「本当ですか、いま生活が非常に窮乏しておりますので、センセイ、是非にもわたくしが受賞できるよう計らってください」→8月に選考結果出る、太宰落選→パピナール中毒による2度目の入院)。
 この一連の騒動のなかで佐藤はなかば、匙を投げた様子である。『太宰治全集』第11巻は書簡に充てられているが、太宰から佐藤に宛てた手紙はこの年を最後に途絶え、以後のものは別巻収載の書簡を含めても見附けられない。
 斯くして交流はそのまま絶えてしまうかに見られた。が、縁はふたたび結ばれる。太宰にしてみれば体調は回復し、気持ちの整理も済み、慎重にタイミングを見計らっての年賀の挨拶と相成ったことであろうが、そんな太宰と佐藤との間にどのような会話があったのか、それを伝える資料は残されていない。
 ただ1つ、話があったであろう、と推測できるのが、『月刊文化学院』への寄稿の件である。佐藤サイドから切り出されたものか、太宰の方から「どこか書ける雑誌などありましたら、ご紹介の程を……」という風に頼んだか。いずれにせよ、この日の会話が実ったことで、太宰と文化学院にただ1度とはいえ結びつきが生まれたのだろうことは、想像に難くない。
 太宰は「諸君の位置」という短い随筆を書いた。学生を叱咤鼓舞する内容である。それは昭和15年3月刊『月刊文化学院』第2号第2巻通算第9号に掲載されて、いまは『太宰治全集』第10巻に収められる。余談ながら翌る第10号に載った西村伊作の随筆「数字と偶像」(「数と偶像」とする文献もあり)が検閲・削除の憂き目に遭い、また12号でも「老獪言説」が同じ措置を受けていることを、この雑誌、この学校を語る上では外せぬ事柄であるため、敢えて付記しておく。
 「諸君の位置」の初出誌となった『月刊文化学院』については編集兼発行人の石田周三が、「『月刊文化学院』」てふ一文を草して当時を回想している(『愛と叛逆』所収 P335-39)。往時のエネルギーとパッションが片鱗ながら伝わってくる、この雑誌に関する殆ど唯一の証言というてよいのだが、「どんな人がなにを書いたか、いまになるとちっともおもいだせない」(P337)とは却って潔い。それだけたくさんの人々の寄稿があって、そのどれにも思い出深いエピソードがある、ということなのだろう。そう解釈したい。うん、太宰もね、1度だけ寄稿していたの。その随筆、「諸君の位置」はどうにも心に残らぬ1編なのだけれど、これは個人の見解です。
 なお、現在「諸君の位置」は青空文庫にて公開されている。但し、全集所収の同編と較べて青空文庫は致命的ミスを犯した。最後の段落から結びとなる3つのセンテンスをバッサリと、省いているのだ(スクリーンショット並びにプリントアウト済み)。それゆえにこそ、「諸君の位置」は青空文庫──webではなく、筑摩書房の全集(文庫版含む)で読むべき1編といえるだろう。
 削られたのは学生編集に一言した部分だが、いったい入力を担当した人物はなにを考えて、このような措置を執ったのか。校正担当者を別に置く理由はなにか。好事家によるボランティアはよいけれど、テクストに敬意と注意を払えぬ輩に任せるべき作業では、決してない。誤りあっても見過ごしてよいのなら、小学生に任せればよい。
 もしかすると、入力担当者が用いた底本には、件のセンテンスが欠落していたのだろうか? まさか! 底本に使用したのは、筑摩書房の全集である旨はっきり断りが入っている。「自分が使った底本にはそのような文章はありませんでした」と言い逃れはできない。ちくま文庫版全集を底本に用いた、とはどこにも書いていない。こちらならば、件の一節省かれているのだが、底本の表記や選択を甘く見ると(手近にある本で間に合わせようとすると)このような目に遭う、という格好の例といえよう。
 これは青空文庫が提供するすべてのテクストの信憑性に帰結する問題であり、これにかかわるすべての人物の能力にかかわる問題でもある。是非にも青空文庫の運営元並びに入力担当者・校正担当者による経緯の説明と弁解の言葉をお聞かせ願いたい。◆

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