第2882日目 〈太宰治『新ハムレット』/「待つ」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 新潮文庫の『新ハムレット』は太宰中期の小説、5編を収めた1冊であります。発表順に初出データをまとめると、「女の決闘」;『月刊文芸』昭和15年1〜6月号、「古典風」;『知性』昭和15年6月号、「乞食学生」;『若草』昭和15年7月号〜12月号、「新ハムレット」;『新ハムレット』文藝春秋社昭和16年7月刊、「待つ」;『女性』博文館昭和17年6月刊、──となる。
 この1冊を読んで、唸ってしまいました。或る作など3度まで読み返してしまったぐらい。いずれも圧倒される程に“濃い”作品ばかりだったからであります。
 これの前に読んだ『きりぎりす』、『走れメロス』、『お伽草紙』等に収められた、同じ中期の小説群と較べてみてもまるで遜色ない、それぞれが極めて個性的な作物で、改めてこの時期に於ける太宰の創作活動の充実振り、前期にも後期にも見られぬ自由奔放かつ知性的な作品ばかりであることを思い知らされます。かつてロマン・ロランがベートーヴェンの創作活動を俯瞰して傑作ぞろいの中期を指して<傑作の森>と、そう称しましたけれど、太宰の場合はこの或る意味で最大級の讃辞が霞んでしまう程、否、陳腐に思わせてしまう程、その創作活動の異様なまでの充実ぶり、各作のクオリティの高さに唖然としてしまうのであります。個人の好き嫌いは別にしてこの時代の太宰に駄作なし、玉こそあれど石はなし、わたくしはそう思うのです。
 とはいえ、1作1作の感想を書くとだらしない文章ができあがったので、書き直しとなるこの文章では、特に「女の決闘」と「待つ」に絞って感想を述べることにいたします。むろん、それが「古典風」と「乞食学生」を大したことのない作品であることを表明するものではありません。個人的に優劣をつければ僅差で「女の決闘」と「待つ」が、その上に位置することになる、というだけの話。なお、「新ハムレット」は別に独立した感想文を書いておりますので、そちらにすべて譲ることにいたします。
 まずは、集中最後に置かれた、「待つ」という短編。掌編というた方がよい分量──文庫版で4ページに過ぎぬ──の作品なのですが、わたくしはこれを何度読んでも、読めた、というたしかな手応えが感じられません。なんとも摩訶不思議な作品、模糊とした雰囲気の作品であります。
 と或る停車場で毎日、<誰か>を待つ女の独白体なのですが、年齢を除けばこの女性の風貌や境遇は勿論、そもいったい<だれ>を待っているのか、まるでわからない。深読みする気になれば幾らでも可能だけれど、却って作品の本質から離れていってしまうだけのような気もします。見当違いの意味ではなく、この作品が本能的に抱える空虚さ、余白の広さを無意味に埋めるだけの作業になりそうです。
 女性が待つのは、<人>か。作中何度か、「大戦争」という言葉があります。発表年代を考えれば太平洋戦争か、この頃洋上の戦争はミッドウェー海戦を転換点に以後劣勢を強いられて徐々に戦線を縮小してゆき、陸地にあっても戦線の拡大に伴い補給の困難が生じて、兵士の士気は鈍り鰺める頃であった。女性が待つのは、軍人なのか、民間人か。軍人ならば、彼女の待ち人は傷病兵なのか、なんらかの事情で内地に戻されて軍役を外れた元軍人か。いろいろと考えようはある、が、どこにも手掛かりはない。
 そも彼女の待ち人はこの世の存在か。現実の存在なのか、彼女の想像や思い出のうちにのみある人ではなく? 油断のならない小説だ。太宰はどうしてこのような、或る意味で「らしくない」小説を書いたのだろう。もしかすると彼女が<待つ><誰か>とは、至高の存在であるやもしれません。信仰が生み出した聖なる者を希求する気持ちが、彼女をして毎日停車場へ足を運ばせているのです──。否、と退けられる者があろうか?
 一読して、惻々とした不気味さに身震いした。こんな経験、そう滅多にないことだ。どれだけ行間を読みこんでも、この作品のそこかしこに塗りこめられた虚ろな世界に触れることは、とても難しいだろう。
 「私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十の娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さな駅の名は、わざとお教え申しません。お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。」(P355)
 「見附ける」ではなく、「見掛ける」であります。恐ろしい。この<待ち人>は、語り手の女性を認識していないのかもしれないのです。群衆に埋もれて個人として認識されることない相手を、女性は待ち焦がれているのかもしれないのであります。或いはそこに、背徳的な関係を探り出すことだって可能でしょう。が、読者に正解は与えられていない、手掛かりすらだにも──。そも女性はほんとうに、駅へ出掛けているのか? それさえ疑わしく思えてきます。「私は待っています」「誰を待っているのだろう」、この対句がすべてを解読する鍵であり、すべてを惑わす罠であるように思えます。
 もしわたくしが太宰アンソロジーを編む機会あれば、「待つ」は絶対に大トリの座を与えます。それぐらいに「待つ」は、太宰文学のなかでも最強クラスの神品であり、あらゆる意味で読者の心に強烈な印象を与える作品なのであります。ちょっとこれに匹敵するような読後感、作品全体の印象などを持った作品を思い出すことが、わたくしには出来ません。
 本作を朗読しようとするならば、ここに挙げた言葉だけでなく4ページのなかにあるすべての言葉を把握し、かつ距離を置いて平静を保たないと、作品に呑みこまれて聴くに耐えない代物ができあがるであろうこと、疑いようもありません。いい換えれば、それだけ朗読者を選ぶ作品である、ということであります。
 ──「待つ」でちょっと紙幅を喰い、自分もチト白熱してしまいました。反省。件の掌編についてはここで止して、次回は「女の決闘」へ話題を移しましょう。(to be continued.)□

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