第2887日目 〈太宰治の晩年作品を読み直すプロジェクトの第1回;『斜陽』〉 [日々の思い・独り言]

「里見八犬伝は、立派な古典ですね。日本的ロマンの、」鼻祖と言いかけて、熊本君のいまの憂鬱要因に気がつき、「元祖ですね。」と言い直した。
 熊本君は、救われた様子であった。急にまた、すまし返って、
「たしかに、そんなところもありますね。」赤い唇を、きゅっと引き締めた。「僕は最近また、ぼちぼち読み直してみているんですけれども。」
「へへ、」佐伯は、机の傍にごろりと仰向きに寝ころび、へんな笑いかたをした。「君は、どうしてそんな、ぼちぼち読み直しているなんて嘘ばかり言うんだね? いつでも、必ずそう言うじゃないか。読みはじめた、と言ったっていいと思うがね。」
「軽蔑し給うな。」と再び熊本君は、その紳士的な上品な言葉を、まえよりいくぶん高い声で言って抗議したのであるが、顔は、ほとんど泣いていた。
太宰治「乞食学生」 『新ハムレット』新潮文庫 P141


 最後に残していた『グッド・バイ』をゆっくり読み進めながら、いつしか10年前に読んだきりな後期の、晩年の諸作を再読する希望を持つようになっていた。そのまま未読のドストエフスキー作品へ移るつもりが、相も変わらず太宰を読んでいるのは、件の希望を実行中だからに他ならない。
 『斜陽』と『人間失格』、短編集『ヴィヨンの妻』(最後に置かれたのは絶筆「桜桃」)の順番。そうしてそんなに長くない感想を以下に並べてゆこう。

 10年前に抱いた感想は、もう覚えていない。漠としたものも、或いはその欠片すら。今回は1日で読み切ったわけだけれど、当時よりずっと胸に刻まれた作品となったことは間違いない。
 没落華族の悲哀と新時代の新しい価値観が同居した作品であるのは発表当時(昭和22/1947年)からいわれ続けて、今日でもなお常套句というか枕詞のようにくっ付いて語られることが多い『斜陽』だが、そうした一面があるのは勿論として今回読み直してみるとやはりこれは<母と娘の物語>であり、<女の情念の物語>である、と再認識せざるを得ない。そうしてそれは見事に作品全体の、前半と後半に分けられる。
 <母と娘の物語>としては、特にわたくしは文中のそこかしこに痛々しいものを感じてしまう。それがとどのつまり、母を想う子供の話であるからだ。母に甲斐甲斐しく尽くしているのに、他の兄弟が大切、頼りにしている、と知るや感情の押さえどころなく慟哭してしまう子供の話と思うためである。主人公かず子の置かれた状況はそのまんま、いまのわたくしが身を沈める環境に等しい。
 病気を抱えている母、その死の影にかず子もわたくしも怯えている。ああ、われらは親を、いたわらねばならぬ。能う限りに於いて心労を感じさせてはならない。心配事を増やしたり、心痛に顔色を暗くさせてはならない。生活の、お金の心配をさせては駄目だ。孝行しなくてはならぬ。死が家族を分かつまで、母には心配も苦労もさせることなくただ穏やかに、悲しみや不安の影さすことなく暮らしてほしい。ただそのことだけを子供は願い、祈り、母を安心させるために健全に生きようと思う。が、──
 けっきょく子供は子供以外の何者でもなく。かりに家庭を持って独立していても血がそのことを忘れさせることはなく、子供はいつまでも母に甘えて自分を押し通し、無下に扱われると頬ふくらませ駄々こねて不機嫌を露わにする。子供はいつまで経っても子供である。
 そんな自分を反省し、悔恨するのが、かず子だ。そうして母在りし間はどこか浮世離れ、というか足許危なっかしげでフワフワした言動があったけれど、<最後の貴婦人>と綽名された母逝去後は、特に上原に対してアグレッシヴな行動に出、遂にはその子を宿し、この子がいれば私はじゅうぶん、とまで述懐するに至るのだ。頼る者、支えとする者を失った女性は得てして逞しくなる。かず子はまさにそれを地でゆく存在だった。『斜陽』という作品から悲しみや不安という感情の密度が薄まり、ともすれば恐ろしささえ感じる<女の情念の物語>へ変化するのは、だいたいこのあたりからである。まさに、戦闘開始、である。
 が、それは当初より太宰の構想のうちにあったものではなく、外的要因によって変化した部分もあったようだ。「戦闘、開始」てふこれまでのかず子からは思いもよらぬ覚悟の独白に始まる第6章。ここに、かず子が上京して鍾愛の作家上原を、馴染みの居酒屋を探し当てて訪ねる場面がある。この場面というのはデフォルメされているとはいえ実は、太宰の実体験に基づく場面でもあるそうだ。新潮社に籍を置き太宰と面識、親交あった野原一夫に拠れば、この場面に於けるかず子は太田静子であり、懐妊の出来事に至るまで彼女の姿をトレースしたものである由。
 もともと『斜陽』が太田静子の日記を元ネタにしていて、その日記も日を書き継いで成る普通の意味での日記ではなく、終戦の年に逝った母の思い出を綴った回想録のようなものだった(そも日記を書くよう促したのも太宰だったという)。その日記を昭和22年1月に借覧、翌月には借り出して、沼津市内浦の安田屋旅館の駿河湾を望む新館2階の部屋で『斜陽』の第2章まで書き進めた。その年の12月、静子は娘、治子を産み、太宰はそれを認知した。デフォルメされた形であるとはいえ、『斜陽』は太田静子との交際なくしてけっして生み出されることなかった太宰のみならず戦後文学の代表作である、というて過ぎはしないだろう。
 なお、前述の第6章ではかず子が居酒屋の女主人ともう1人の女性と3人でうどんを食べる場面があるのだが、静子の日記や野原の前掲著書に拠るとこの「もう1人の女性」というのは、太宰情死の相手となった山崎富栄であった。太田静子の日記はともかく野原の著書『回想 太宰治』(新潮文庫)についてはまた別の機会に紹介したい。
 さて。
 チェーホフ『桜の園』同様、没落華族の悲哀と憂鬱をたっぷりとした筆致で綴られた『斜陽』であるけれど、これはおそらく当時の現役作家のうちでも太宰治にしか書けなかった題材であるかもしれない。チェーホフ然りだが、太宰もかつての富裕層、名門と呼ばれて敬われた階級が社会が根本から引っ繰り返ったことで没落の一途を辿らざるを得なくなってゆく様をその目でしかと見、肌で感じて魂を揺すぶられ、嗚呼、と嗟嘆するのを否めぬ立場の者であった。実家、金木の津島家は相当な痛手を被った様子。それは、<没落><斜陽>と形容するにじゅうぶんすぎる程の出来事であった。こんないい方が妥当かわからないけれど、かれは没落階層のなかに身を置いて、およそあらゆる意味での変化、展観を目撃したのである。そんな人物の職業が小説家となれば、戦後日本の象徴的出来事の1つであった有産階級の斜陽をテーマに据えた小説を物すことになるのは、必定としか言い様がないだろう。
 『斜陽』は昭和22(1947)年3月から6月にかけて執筆、『新潮』同年7月号から10月号まで連載された後、12月に単行本として刊行された。
 ──短く済まそう、その決心は空しく消えた。反省のひと言、無能てふ自分への蔑みの台詞のみ。まだ少々いい足りぬところはあるが──かず子の弟直治のこと、上原のこと、M.C、かず子たちの転居先となった山荘の在処、革命のこと、etc.etc.──、「どうしてもこれだけは」というところは述べ尽くした気もするので、本稿これにて筆を擱きましょう。
 次は、『人間失格』ですね。(to be continued,)□

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