第2889日目 〈太宰治の晩年作品を読み直すプロジェクトの第3回(最終回);『ヴィヨンの妻』〉 [日々の思い・独り言]

 再読の醍醐味はなんというても新しい気附きにある。見逃していた表現や言葉に新鮮な感銘を受け、以前読んで心震えた箇所に再会して懐かしくなったり、感動の更新をしたりしなかったり、時には作品それ自体への態度を改める機会になったりすることも。

 いよいよ最後の本である。
 これ程惜しむ気持ちでページを繰り続けた短編集も、ない。一粒一粒が美味の極み、いちどに食べて刹那の幸福へ浸るのをこらえて、惜しむように、ひたすら惜しむように読む。そんな気持ちにさせられる短編集、滅多になし。が、惜しむというのはけっしてそんな理由からばかりではない。一作一作読み終える毎に作者の人生の終焉が、着実に近附いてきているとわかっているから、惜しむ気持ちに拍車が掛かる。そんな短編集が果たして世に何冊あるというのか?
 ──太宰治『ヴィヨンの妻』はわたくしに斯く思わしめる1冊である。後期といいつつ事実上の創作活動の〆括りの頃に書かれた、最後の<脂の乗った時期>の作物ばかり集めた、加えて代表作として挙げられる多くの短編を含んだ本であるぞ、『ヴィヨンの妻』は。
 文学事典や文学年表の類に名が載る短編には、どのようなものがあるだろう。相違は多少こそあれ、「ロマネスク」「走れメロス」「女生徒」「駈込み訴え」の他は、「トカトントン」「ヴィヨンの妻」「桜桃」そうして「グッド・バイ」というあたりか。前文の後半は、いずれも後期の作で、「グッド・バイ」を除いた3編はみな、本書に載る。<第二次読書マラソン>の掉尾を飾った『グッド・バイ』と同じく、死力の限りを尽くして書きあげた珠玉の作品を多く収めるが、実はわたくし、10年前にはじめて読んだときからどうも、「ヴィヨンの妻」が好きでない。
 好きでない理由を探らんとだらだら綴ってみたことがあるけれど、けっきょくわれながら原因について皆目見当が付かず、どうにも股のゆるい文章になってしまったので棄て置いた。逆に今回の再読で己が意識に赤丸急上昇(小林克也の口調で再現されることを望む)して、すっかり魅了されてしまうのが、「おさん」である。これはずいぶんとドライな質感の夫婦小説だ。戦後はすっかり魂の抜けてしまったような夫を支える妻が語り手という、太宰お得意の<女性語り>の一編である。
 どうもこの妻の感情というものが見えてこない。「ヴィヨンの妻」の大谷妻以上に捉えどころのない女性だ。わたくしは男だからこんな風に思うのかもしれないけれど、男の側からはまるで実体のない、観念的な存在と映るのだ。内に抱えこんだ虚無や闇の深さ、絶望感、夫へ向ける淡泊な眼差しなど、これまで太宰が書いてきた女性たちのなかでもこの人は、頗る付きで印象あざやかである。
 「おさん」は気持ちが逆転した作品だった。では、前にも増して好きになった作品があるかと聞かれたら、ある、と答える。それが「家庭の幸福」と「桜桃」の2作。
 「家庭の幸福」はこう結ばれる。曰く、<家庭の幸福は諸悪の元>、と。これは太宰の本音であろう。家庭を大切にし、最優先で考えるのは、所帯を持った男の上書きされた本能。重要な会議よりも親や女房の健康が大事。接待よりも子供と過ごす方が大事。ラジオを聞きながら太宰治が夢想する小説の主人公、小役人の津島修治氏の脳みそは家族の幸福ばかりが占めており、時間ギリギリで駆けこんできて出生届の受取を願う女性の訴えなど退けて然るべき些事、些事、些事。<家庭の幸福>に取り憑かれた男にとって、女性が自殺してしまってもそんなのは知ったことでない。<家庭の幸福は諸悪の元>とは、来し方を顧みて深く頷けるところがある。太宰は家庭を大切にしすぎたあまりに諸悪のなかの悪の親玉に抗えず入水して果てたのであろう……。さて、入水しようとしなかろうと、<家庭の幸福は諸悪の元>に頷き身に覚えある者、われ以外に幾たりあるや。
 そうして、「桜桃」。完成した短編としては最後の作品である。実に空虚で、寒々とした小説である。読後、なんともいえぬ読後感に襲われ、どうにかして言葉を紡ごうとしても口から出る直前に消えてなくなってしまう。太宰最後の短編は、とても苦い味がする。読み終えたあとは魂抜けたような気分になってしまう。太宰が「桜桃」と『人間失格』にて従来の路線にいったん区切りをつけ、「グッド・バイ」で新しい世界を拓こうとしていたなら、それは本当に残念なことだ。そうでなく、「グッド・バイ」が死を前にしての奇妙な明るい気分の具体化だとしたら、『人間失格』は勿論のこと、「桜桃」はもっと凝縮された形で太宰のラスト・テスタメントと受け取るより他にない。
 哀しみとやるせなさと、重苦しさ。複雑な気分を抱えて、わたくしは『ヴィヨンの妻』の巻を閉じた。◆

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