第2890日目 〈<第二次ドストエフスキー読書マラソン>開会宣言;併せて短編「他人の妻とベッドの下の夫」読了に寄せての意見。〉 [日々の思い・独り言]

 首都圏で緊急事態宣言が解除されたその日、ようやっと太宰治『ヴィヨンの妻』の感想を書きあげたことで全冊読了の宿願を果たし、これで「太宰治を読んだか?」と訊かれたら、「読んだよ」と胸を張って応えられる。おおげさを承知でいえば、呪縛から解き放たれた気分である。ハレルヤ。それが昨日のこと。
 数日前から、こちらもかねて宿願のドストエフスキーを読み出した。当初の予定から変更した点があるとすれば、残りの長編2作に手を着ける前に短編集でウォーミング・アップ(チューニングと言葉を置き換えてもよい)を図ったことである。
 途中で放り出した(とはいえ、それでも上巻の2/3までは読んでいた)『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』だけでなく、このような機会が巡ってくることはこの先、ゆめあるまいから書架の奥行き調整に徴用されていた『二重人格』を原隊復帰させて(代わってその任に充てたのは、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』初版単行本である)、不要不急の外出自粛が叫ばれていた4月末、有用のため豊洲−有楽町−東京エリアへ出掛けた際に立ち寄ったオアゾの丸善にてド氏の短編集3冊を購い、人の姿稀なる京浜東北線に乗って帰宅した。<第二次ドストエフスキー読書マラソン>の開始に備えての短編集購入である。1990年代に福武文庫から出ていた前期後期の短編集もこの機会に入手したく思うていたが、それは間に合いそうもない。
 通勤時間が大幅に短縮されてしまった──東銀座や新宿御苑、六本木一丁目や豊洲時代に比べると、現在の通勤時間はわずか1/3程度なのだ!──ことに伴い、読書の時間もすこし減ってしまった。よって、果たして今週はおろか年内のマラソン完走も叶わぬのではないか、と、少々不安を抱いているのだ……。 
 わたくしは読むのが遅いのでこんな厳しい見積もりを出さざるを得ない。
 まぁ、焦らず慌てず惑わされず、ゆっくりのんびり着実に1作1作、1冊1冊を読んでゆきます。

 いまは短編集、『鰐』(講談社文芸文庫)である。<笑えるドストエフスキー>像を求めて沼野充義がこの文庫のために編んだ。ちょうど2番目の作品、「他人の妻とベッドの下の夫」を読み終えたところ。
 解説などで指摘されるように、たしかにボードヴィル劇である。
 が、笑い、滑稽などよりも先に退屈、苛々が来るのはどうしてか。イワン・アンドレーヴィチの無作法と短気と会話の脱線具合と媚びへつらいに、口から出て心に積もるのは溜め息ばかりなり。
 小沼文彦はドストエフスキー作品の個人全訳を果たして有名だが、この小説を訳しているときかれは、いま自分が訳しているのはドストエフスキーがユーモアを前面に打ち出した作品であることを意識していたであろうか。5大長編と同じようなスタンスで、訳筆を揮ってはいなかったか。
 どうした所以かわたくしは、この小説にまるで心を動かされなかった。刹那の会話劇に苦笑して、ぷっと吹き出したことはあるけれど、その行為の背景に「いま自分が読んでいるのは、ドストエフスキーのユーモア小説なんだ、ボードヴィル劇なんだ……」という、無理に気持ちをそちらに引き寄せて斯く笑んだことはなかったろうか……?
 これまでに読んだことのある、海外のユーモア小説を思い返してみる。ウッドハウスはちょっと特殊な事例ゆえ考慮に入れぬとするが、やはりわたくしはこの作品を、たといロシア語からの英訳を底本とする重訳で構わぬから、浅倉久志や大森望の訳で読みたかった。かれらの訳ならきっと、アパートの一室に介しての男女の4重唱も適切に処理されて読みやすかったろうし、日本語でもじゅうぶん愉しめる<ユーモア小説>に仕上がっていたであろうことは疑いない。◆

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