第2891日目 〈先週と同じようなことを、今週も書きます;ロシアのDのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 気持ちがたるんでいるのを実感している。社会人としてでは勿論なく、むしろ読書する人として。
 昨年の夏あたりから今年の先月まで太宰治にどっぷり浸かって、それ以外の小説を新しく読むことは殆どなかった。例外が松本清張と東川篤哉の2人だが、それぞれ数冊程度でしかない。しかも病床のなかにあったか、どうしても寝つけぬ時の睡眠誘導剤(これ、褒め言葉であるとご理解いただきたい)。文字通りのそれは<ちょっと気分転換>以外のなにでもなく、本道は常に太宰、太宰、太宰……。
 そうして気持ちがたるんだ原因は、まさしくここにある。いままでは1冊が終わると自動的に次の1冊にカバーを掛けて、通勤カバンにしのばせていたものだから、「さて、次はなにを読もうかな」と悩む必要などまったくなかった(あろうはずもない)。感想を書くにあたって少しく間が開くことはあったけれど。明確な意図の下、目的達成のためのフローが作られていたから可能だった技である。<第二次太宰治読書マラソン>てふ意図、新潮文庫版太宰治作品集全18冊読了てふ目的の達成。
 それを果たしての反動であろう、ここしばらく小説を手にすることがない。寝しなに三上延や山本弘、或いはウッドハウスなど持ちこむことはあったとしても。──否、次に取り掛かるべき作家は決まっているのだ、こちらも10年越しの読破を目指している、姓に太宰と同じイニシャルを持つロシアの文豪。
 なかなか踏ん切りがつかないのだ。まだ自分のなかには、太宰の残り香がうっすらと、ある。これを完全に消してしまえるまでわたくしは、件の文豪へ手を着けぬつもりだ。まぁ、2週間程度でせう。それに、見切り発車的なスタートであってもいったんそれを手にしたらばやがて残り香なんぞ霧消してしまうと、わたくしはこれまでの経験でじゅうぶん承知している。
 ──というのが先月中葉まであたりの所感。
 お話しすべき順番が前後してしまうたが、ゆやっと金木の”D”の呪縛より自由になり、ペテルブルグの”D”の文庫をカバンのなかへしのばせるようになった。10年前、未読で残した長編にいきなり取り組むのではなく、まずは初挑戦の短編でチューニング。
 取っ掛かりの2編は、殊長めの短編の方はじっと我慢しての読書となってしまうたのは残念だが、3作目でやっと体が馴染んできたと感じている。体が馴染んだ、というのはチューニングが終わったことを意味することに他ならない。進め、進め、全身だ、Go with it, Go with it, JAM. さぁ、これでもう他の作家に目移りすることなく、世界文学史に名を残す最後の長編までじっくりゆっくり、読書に耽ることができるぞ。
 本ブログの愛すべき読者諸兄よ、わたくしはここに謹んでご報告しよう。ドストエフスキー『鰐』(講談社文芸文庫)の読書は順調であり、福武文庫の短編集2冊は間もなくわが許に到着する。ハレルヤ。◆