第2897日目 〈時代を超えて読まれる米川正夫の翻訳。〉 [日々の思い・独り言]

 前回はちょっと言葉が走ったような感もあるので、本日慌てて修正というか弁解というかそんなものをさせていただきたく筆を執った次第。
 たしかに今日のイキの良い翻訳に較べて米川正夫のそれは古風がかった、けっして取っ付きやすいとは言い辛いものである。文語混じり、時代がかった表現を孕んだ訳文を読み進めるのは、読者の側に若干の忍耐が要求されるだろう。おまけに今日の新訳は(ドストエフスキーに限った話ではないが)息長く描写濃密な段落を、訳者や編集者の判断で適宜改行せられることも珍しくない;これは勿論、読者サイドが長い段落を読むのに困難を感じていることに概ね起因する。
 何だ彼だいうても米川正夫の翻訳は、半世紀以上前の作物だ。今日の時流にピタリ、とそぐうものではない。だからこそ海外文学の古典はいつの時代も新訳が求められている。そうして出版されると、論旨の正当か否かにかかわらず賛否両論を巻き起こすことに。現在陸続と過去の翻訳に代わって新訳が登場しているのは、いまがまさに日本語の転換期にあたっているから、と、そう考えてよいのだろう。いい換えれば、21世紀中葉にはいまの新訳は古びて新たな翻訳が求められるようになる、ということだ。
 一方ででかつての翻訳が──多くは翻訳者のネームバリューにより──ふたたび脚光を浴びて持て囃されたり、新しい世代によって大事にされてゆく現象もあるが、これは新訳ばかりが<正>ではあり得ないということを示す好例かもしれない。川端康成訳バーネットの『小公子』や片山廣子/松村みね子訳すダンセイニ卿、イエイツ、マクラウドを始めとするアイルランド文学が、いまわたくしの脳裏には浮かんでいる。が、それはさておき、米川正夫の翻訳が今日なお新刊書店の棚に現役として並んでいるのはなぜか──。
 名訳と謳われることに異論はないが、それのみによって生き残り、版を重ねているわけでは決してあるまい。当時としてはあたりまえであった文語混じりの訳文が却って、いまの読者の目には新鮮かつ格調高いと映るのが、米川役をいまなお生き永らえさせる主たる理由であろうか。──米川正夫の訳したロシア文学といえばやはりドストエフスキーであり、(文豪の方の)トルストイである。続けてツルゲーネフやアルツイバーシェフが、メレジュコーフスキーやショーロホフが思い浮かぶ。
 斯様に並べて気附かされるのは、米川が多く翻訳した作家の過半が19世紀に活躍した人々であることだ。かつて生田耕作先生の『るさんちまん』が世に出た際、沢名恭一郎が寄せた書評の一節に基づくならば、特定の作家について翻訳点数が多いことは即ちその作家への愛着や共鳴の度合いが高く、また作品への愛着や読みこみの、理解の深さに比例する。生田先生に於けるバタイユやマンディアルグ、セリーヌ。平井呈一に於けるハーンとマッケン。紀田順一郎のM.R.ジェイムズとブラックウッド、荒俣宏のダンセイニ。平井肇に於けるゴーゴリ。神西清に於けるチェーホフ。延原謙に於けるコナン・ドイル、就中シャーロック・ホームズ・シリーズ。etc,etc.
 これは皆、肌の合った、気質を同じうする原作者と翻訳者の幸福な出会いであり、理想的なパートナー・シップの実例である。米川正夫の場合はそれがドストエフスキーであり、トルストイであった、というお話。
 その訳業のなかでもどうしても合う作品、合わない作品はあるのは仕方ない。<玉>ばかりを生み出す作家はいないからだ(自己批判が嵩じて<玉>だけ遺して他を処分する作家はいるけれど)。前回は「初恋」(ドストエフスキーのね)を読んで触発されて、その訳をアンティークといい、退役を義務づけられた巨艦と曰うたけれど、『ドストエフスキイ前期短編集』を読了し、『罪と罰』と『白痴』をそれぞれ休日に読み直してみて思うのは、斯様な認識は一部の作品については<正>かもしれぬが大局的に見ればそれは少数意見に成りさがる、ということ。むろん、個人の見解。「初恋」は他の人の訳で読んだら目から鱗が落ちるような思いを味わうのかもしれないし、逆に「鰐」は前回の他の訳よりもずっと愉しく読書してお気に入りの短編の1つとなった。「ポルズンコフ」と「弱い心」に至っては他の人の訳で読むのがちょっと怖いぐらいの感動を、米川正夫の訳から蒙ったことも、ついでに告白しておく。米川訳すところの5大長編のうち、既読作でまだ触れていないのは『悪霊』となるが、こちらも是非目を通してみたく思うている。そうして、『カラマーゾフの兄弟』を読み終える頃には米川訳D全集を購うか、否か、真剣に悩んでいる自分の姿が容易に想像でき……。
 本稿を書くにあたってあらかじめ用意していたメモが、実はある。それを活かすことが殆どできなかったこともあるので弔いも兼ねて、恥を曝すようだけれど最後に転記させていただく。原本から翻字はするが校訂はしないので、ちと文意が乱れる箇所あるやもしれぬがどうかご勘弁の程願いたい、──
 「米川正夫の翻訳を等しく斯くいうのではないし、そんな愚挙暴挙を犯して地雷踏みに行くつもりもない。顧みれば学生時代、佐野努先生の露文ゼミにて「クロイツェル・ソナタ」を読んだのが馴れ初めで、途中例の平井発言をはさんで『復活』の他『イワン・イリイチの死』『光あるうちに光の中を歩め』、ツルゲーネフの『初恋』と、薄い本が多くを占めるのはともかく、ドストエフスキーの、いまは角川文庫で復刊された『罪と罰』や岩波文庫にあった『白痴』は一読、新潮文庫の翻訳とは異なる端正かつ整然とした訳文に膝を叩いたものだ。(ドストエフスキー)「初恋」はこちらのチューニング不足が主原因だろうが、それでも米川と作品のミスマッチは否めない。学生時代、米川正夫といえばトルストイの訳者てふイメージがあざやかに刻印されていて、ドストエフスキーの訳業は知ってこそあれ未だこちらにDヘの感心が薄かったせいもあってつい最近まで意識にのぼらなかったのが偽りのなき正直なところ。」
 ──以上。お粗末さま。◆