第2905日目 〈旧約聖書続編「トビト記」再読。──目標、1回1,200字以内!〉3/3 [トビト記]

 といいますのも、義父の懇願を退けて故郷へ戻ったトビアは、実の両親とその最期の日まで生活を共にします。サラも──語られない部分で様々愚痴や不平不満を夫に洩らすことあったでしょうが、大波を立てることなくそれなりに順調に、歳月を共に過ごした様子。トビアの両親と夫の愛にサラは応えて、嫁として舅姑にかいがいしく接し、妻として夫に尽くし子供を育てたのであります。サラはルツと違う意味で聖書に登場する貞女と讃えられて然るべきではないか、と思うてやまぬのですが、どんなものでしょう。
 とまれサラは嫁して義両親に尽くした。時代や国が違えても結婚は家と家の結びつきに他ならない。片方の家への義務──配偶者の両親への献身が果たされたあと、では残るもう一方の家に果たすべき務めはないか。むろん、ある。トビアとサラの場合、共に独りっ子であるから、務めが付き纏うのは尚更だ。そうして2人はそれを果たした。では、如何様にして? つまり、こういうことです、──
 112歳になったトビトは己の死のみならず、同時に国に訪れるであろう風雲急さえ予感していた。かれは息子に告げて曰く、かつて預言者ナホムによって語られたニネベ滅亡は実現する、都と国は他国によって踏み荒らされる、ゆえお前はわれらが死したる後は妻子を連れてメディアへ逃れよ、そこで暮らす方がここに留まるよりずっと安全だ、と。トビアはそれを諾い、父を母を弔ったあとエクバタナへ移り、サラの両親を「ねんごろに世話し」(トビ14:13)て2人を看取った。
 これは老親の面倒を見る、同居する、という未来から逃れられぬ夫婦には、一種の福音もしくは方策の1つといえるのではないでしょうか。すくなくとも参考にはなると思います。自分がこの問題に悩まされるのがいつの日か、わがことながら不明ですけれど、まず自分の両親を最後まで世話して見送る、そうしたあとで配偶者の両親を同様に世話して看取て弔う、というやり方を「トビト記」で知り、成る程、と膝を叩いた覚えがあります。
 勿論、このように順調に(?)事が進むばかりではないでしょう。というよりも、そうでない場合の方が圧倒的に多いのは重々承知。それを承知した上でなお、わたくしはこのトビアの選択、トビトの助言を<是>と思うのです。まずは片方に能う限りの力を注いで(全力でやったらたぶん、2人共にぶっ倒れます。或いは夫婦間がギスギスするか)幸福に、思い残すことなく後悔することなく過ごして最期の日を迎えたらば然るべき行事を済ませた後、気持ちを切り替えてこんどは配偶者の両親について同じように接すればいい。
 聖書を読んで人生折節の指針を探る、得る。それはとても素晴らしいことですが、概ね信仰上の問題であったり、人生に迷いが生じたりした際のそれであることが専らのように見受けられます。が、「トビト記」で語られるのは、1つに結び合わされた夫婦がやがて直面する家庭の問題にどう対処するか、という非常に現実的なそれであります。この書物はキリスト者であれ非キリスト者であれ、繙いて<親との同居・世話をする>問題の参考にされると宜しいのではないでしょうか。◆

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