第2906日目 〈生きている間に読みたい本、感想を書きたい本。〉 [日々の思い・独り言]

 いろいろ片付けをしていると、この本まだ持っていたんだ、処分してしまったかと思っていた、と懐かしい再会をすることがしばしばで、そんな本を見附けるたびに腰を落ち着けて読み耽ってまったく片付け作業が進んでいない、となるのはおそらく蔵書家あるあるの1つであろう。この場合の蔵書家、というのは単に本が多い人、そんな意味で取ってもらって構わない。
 じつは今回、プーシキン『スペードの女王・ベールキン物語』(神西清・訳 岩波文庫)の感想を書くつもりでいたのだが、なにかと集中できず、おまけに原稿を投稿予定であった今日月曜日は風邪をこじらせてわずかの時間を除いては床にあるため、それが満足に書きあげられていない。そんな次第で方針転換、まだ元気である間に10代20代にであってもういっぺん読んでみたい本、就中それは感想を書いておきたい本にもなるのだが、それの書名と簡単なコメントらしきを記して表面上の責を果たしたい。では、──

○福原麟太郎『読書と或る人生』(新潮選書)、小泉信三『読書論』(岩波新書)
 福原博士の名前をどこで知ったのか覚えていないが、たぶん渡部昇一の本ではなかったか。その時分に読んでいた本に、福原麟太郎の名前を出してその業績など搔い摘まんで話すものはなかったように記憶するから。
 わたくしはこれを、神保町白山通りの古本屋で買った。確か道路向かいにある日大の学生御用達の店の、店頭見切り棚である。500円玉でお釣りが来るような金額であったが、それを買うことで昼飯代が足りなくなり、靖国通りへ出ることなく帰りのJRのなかでさっそく読んだ。これに端を欲して著者の本を探して歩くようになって一時は高田馬場まで足を伸ばしたが、なかなか見附けることができず、けっきょくわたくしが博士の代表作『チャールズ・ラム伝』を手に入れたのは、講談社文芸文庫に収められた版に於いてであった。とはいえ、トマス・グレイの研究書や非売品の書簡集を手にしたのはこの時期であったし、そうした点では収穫に恵まれていたのかもしれない。
 福原麟太郎『読書と或る人生』、これをわたくしは昨年の大掃除のとき、ずっと廊下に放りっぱなしだったダンボール箱から見附けたのであるが、爾来机の上にあってブログその他の原稿に書き倦ねたとき、単純にちょっと疲れたとき、そんな折節に手を伸ばして、適当に開いたページに目を落として読んでいる。支那の地名の話、蔵書票を鉛筆で記録する理由、ロンドン留学の際芭蕉の俳文を薬草としてどうにも相応しい英語が見附からず「もうこれは良しとしましょうや」と諦めた話、師・岡倉由三郎とのかかわりで生まれた挿話群、翻訳についての持論、などなど、読んでいない間でもずっと記憶と心の奥底に澱のように溜まっていた話が、巻を開くと次々にあふれてくる。懐かしさを覚えると同時に、自分がなにに感じてなにに感じなかったか、そんなのを改めて確認することも、ある。
 わたくしのなかで読書論の規範としてあるのは、福原博士のこの本と、渡部昇一の『知的生活の方法』正続(講談社現代新書)、それと小泉信三の『読書論』であった。ここに紀田順一郎の『黄金時代の読書法』(蝸牛社)と『書斎生活術』(フタバブックス)、『現代人の読書』(三一新書)が加われば、最強の布陣といえる。
 渡部昇一が小泉信三の『読書論』の一節を引用して、自身の図書館住まいの経験をお話しているが、それに先立ってわたくしは小泉信三の名前を知っていた。祖父を通じてその人を知っていたのである。というてもむろん、直接の面識があったわけでは、ない(だから、名前を知っていた、と書いた)。詳細は自分の素性を曝すに等しいので、省く。知りたくば直接わたくしにいうてこられよ。幾らでも、お話しよう。
 『読書論』は岩波新書の永遠のロングセラーというてよい。一時はカタログから姿を消していたようだが、だいぶ以前に復刊されて大きな新刊書店ではいまでも取り扱いがある。わたくしがこれを見附けたのは、いまはもうない伊勢佐木町の先生堂という古本屋さん──2代目店長で後に伊勢佐木書林を立ちあげた飯田さんのインタビュー記事を、最近ネットで目にした。もう古本社業は廃業されてしまったのだろうか? 先生堂と伊勢佐木書林、各刻堂のことなど、別に書いておきたい──の、トイレに行く途中にある新書を集めた棚のいちばん上の段であった(下2段は読み捨てられたペーパーバッグで、ウェスタンやミステリ或いはロマンスなど随分と発掘した)。掃除が行き届いた店であったから本の天にホコリの類が乗っかっていることはないけれど、それでも薄汚い姿であった。いまにして思えば、先生堂では、すくなくとも岩波新書は発行されたときの番号順に並べていたのかもしれない。まだ新書のジャンルに新規参入してくる出版社はなく、岩波と中公、講談社の他は既に活動を止めたレーベルの刊行物であった。
 小泉の経験と理想を語り尽くした『読書論』の白眉といえば、なんというても、理想の書斎について述べた一節であろう。ここは渡部の本でも紹介された箇所であるが、比較的有名な一節でもあるので省くとしたい、──今日の読者は原典にアクセスするのさえ面倒臭かったりそこに辿り着く方法をそもそも知らない方もおられようけれど、ここは是非この文章を発憤材料として旧仮名旧漢字の本書に挑戦していただけると嬉しいな。
 まさにこれは理想で、未だ実現されない理想である。読書家にとって、物を考える人書く人にとって、このような書斎があることは誇りであり、武器であり、汲めどもけっして尽きることなき井戸である。外界の音にさえ邪魔されなければ、1つの話題、論点について多種多様な解釈や推理が望め、やがて到達するであろう結論も当初からは考えられもしなかったものとなるに相違ない。書物こそ書斎の生命であり、静寂こそ思索の根幹。小泉の説く理想の書斎とは、そんな両者が調和した一種の桃源郷というてよいのだろう。とはいえ、こんな書斎を本当に持っていたらそこから一歩たりとも出る気にはならず、会社勤めも怠けてたちまち印刷物のモルグと化すこと請け合いである。実現されない方がいい理想もある、ということか。やれやれ。
 
 ここまで書いたのを読み返して、書名を挙げるのと、簡単なコメントで済ますはずだったが、どうやら目論見は外れてしまったようだ、と反省している。
 現在読書中のドストエフスキーの作品について感想を書くのは勿論、そのあとに読むつもりの田中英光と坂口安吾(極めて一部)、佐藤春夫、田山花袋などは置くとして、やはりいまのうちに若いときに読んだ教養書類に関しては、無様な出来になろうとも当時のことと併せて記し留めておきたい。そんな希望を持っているのは、たとえば以下のような本である。順不同で、──
 ○清水幾太郎『この歳月より』、『わが人生の断片』
 ○チェスターフィールド『わが息子よ、君はどう生きるか』(三笠書房)
 ○ハマトン『知的生活』、『知的人間関係』、『ハマトンの幸福論』(講談社学術文庫、他)
 ○ヒルティ『幸福論』(岩波文庫)
 ○家永三郎『日本文化史 第二版』(岩波新書)
 ○カー『歴史とはなにか』(岩波新書)
 ○安田章生『西行と定家』(講談社現代新書)
 ○紀田順一郎・編著『『大漢和辞典』を読む』(大修館書店)
──というあたりか。生田耕作先生の『黒い文学館』、『紙魚巷談』、『卑怯者の文学』、『卑怯者の天国』、『鏡花本今昔』、『ダンディズム』、『るさんちまん』などあるが、正直なところ、これらについては冷静に書けるようになるまでまだまだ時間を要す。おそらくあまりに烈しい影響を被って良くも悪くも人生をねじ曲げた一連の書物であるからだ。

 熱が上がってきたようだ。そろそろ床に戻らせていただきます。◆

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