第2956日目 〈ちかごろブログを書くのが二義的になりつつある理由。〉 [日々の思い・独り言]

 這々の体でブログ用の原稿を書いていることが多い。殊今月に入ってからお披露目したのは大概が時間に迫られ、ない知恵を搾り、一気呵成に仕上げたものが過半。が、問題はそんなところにはなく寧ろ、自分のなかでブログ原稿を書くのが二義的な作業になりつつあることだ。
 かつてはここにお披露目された原稿、刻まれた数々の言葉はわが墓標とまで言い切り、先達ても毎日書くための(わたくしなりの)必須要項をここで公にしたばかりなのに、舌の根も乾かぬうちに「二義的な作業になりつつある」とは、これ如何に? その心を忌憚なく申しあげれば、──
 どちらも本音、どちらも事実、なのである。
 本ブログはこれからもずっとわたくしの生きる縁となるだろう。文章を書いてここにお披露目して、その数極めて微少ながら毎日読みに来てくださっている読者諸兄に”わたくし”という人間が存在していることを覚えておいてもらえたら、いつの日かここに置いてきた幾つかの文章が誰かの目に留まって陽の目を見たら嬉しいな、という気持ちで書いている。これは本ブログを開設した当時から抱いている、揺らぐことなき希望だ。
 にもかかわらず二義的なものになりつつあるのは、書く作業に於いてわたくしの意識がもっと他のところへ向いているため。先月なかばに話していた、未完の長編小説のことかな? そう考えるのは当然だ、無理もない。されど君、否、なのだ。実は昨年の11月から書き続けて、現在も執筆進行中のものがある。擱筆の日がいつ来るのかは不明だ。本心をいえば、そんな日が来てほしくはない。
 この前400字詰め原稿用紙に換算してみたら、1,200枚を優に超えていた。これまでわたくしが完成させた小説やエッセイ、論文のすべてを足せば、枚数的にこれを超えることは可能だ。が、単独でこれを超える枚数の作品を、わたくしは書いたことがない。3本ある未完の長編小説のどれかが完成したらば、もしかしたら……と考えるが、それは所詮妄想の域を出ることがない。絵に描いた餅、とらぬ狸の皮算用。
 ──ここまで書いてきていうのも何だが、昨秋から営々と書き続けているその作品は小説ではなく、まぁ一種の日記なのだ。一種の、というからには通常の日記ではない。フルトヴェングラーの手記の如き代物でもない。荷風のように虚実綯い交ぜの日記でもない。いうなれば、思い出の記憶である。しあわせとかなしみの記録、と言い換えてもよい。
 行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って(Va, pensiero, sull'ali dorate)……わたくしの千々に乱れた心を統一し、安寧を与える愛を運んできておくれ。障害の一つ一つを崩してゆき、わが両の腕にあの人のあたたかな体と心をもたらしておくれ。
 おそらく両想いと云いつつ未だ交際始まらぬあなたを、いつまでも待っている。あの日の言葉に偽りはない。日記の底を流れる通奏低音は、それだ。
 この日記の終わりが幸福の報告でありますように。◆

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